大地、ものがたり(登呂後編)

「世界最古の弦楽器か 3000年前、青森の遺跡から」
日本経済新聞 2012年4月28日

「琴」が日本列島において出現するのは3000年前、縄文後期である。弘前学院大学の鈴木克彦氏によれば、是川中居遺跡から出土した紀元前1000年ごろ琴が、現存する世界最古の弦楽器であるのだという。

上写真の引用元である日本経済新聞の記事によると以下のような概要である。

「鈴木講師は、弥生時代の登呂遺跡(静岡市)などから出土した 原始的な琴と似ていることから「縄文琴」と命名し「日本の琴 の原型ではないか」と話している。木製品は長さ約55センチ、幅約5センチ、厚さ約1センチの細長いへら型。上部に四角い突起、下部に直径約1ミリの穴や刻みがあるのが特徴。杉かヒバのような材質でできている。(中略)毛髪や麻などを素材とする弦を数本、穴に通して張り、指や木の枝ではじいて演奏した(中略)世界最古の弦楽器は、中国湖北省随県で出土した紀元前433年ごろのものとされている。この木製品が弦楽器なら、それより500年余りさかのぼることになる。」

鈴木氏はこの考古学上の発見に、弦楽器の日本起源説を提唱する。

ところで、1万6千年前から始まったとされる縄文時代には、今のように国境という概念はなかった。

アメリカ大陸においても土偶や縄文式土器の出土例がある。北米の原住民族と日本人のDNAレベルでの類似性の指摘もなされている。ユーラシア大陸を含めた環太平洋地域に、縄文人は広く行動していたと考えられるのである。

中近東アジアにおいても、弦楽器を使用したとされる歴史は古い。

つまり人類は、「縄文琴」以前から弦楽器を使用する歴史を共有していたのではないのか、と筆者には思われるのである。

DNA研究は人類の起源をアフリカである、と結論した。しかし、弦楽器の起源は特定が困難である。最古である是川中居遺跡を持って起源、とするのはいささか早計である。

重要なことは、日本の縄文後期には、世界各地で弦楽器が使用されていたことが推測出来うる、という視点だと思う。

日本で、あれだけ精緻に造り込まれた琴があり、また縄文人の行動範囲を考慮すれば、地球規模で琴を用いた文化があの頃、既に出現していた蓋然性が高いであろう。

縄文期に出現した弦楽器は、農耕技術の普及により各地域に土着して発展を遂げる。50センチメートル程の小さな持ち運び至便な楽器は、次第に大型化したものが作られるようになる。一枚の板であった構造は槽、つまり共鳴箱を有するようになる。

登呂では、縄文琴のような一枚板の琴と、槽作りの琴とが出土している。

岩宿遺跡の石器群に見られる文明の系譜にはその後、様々の文化が生じたり合流することを重ねた。

二千年前の日本のちょうど真ん中に位置する登呂において縄文と弥生とが混在する様は、東日本に日高見国があり人口の多くが存在していたところに、渡来人系日本人が西日本からその勢力を増しつつあった、その頃の日本の政治的様相を反映していると考えられるだろう。

日本には少なくとも三千年前「縄文琴」があり、二千年ほど前には既に、渡来人と共に稲作および「弥生琴」も出現し日本の弦楽器、琴文化は、創建された日本の国と共に重層的に発展していくのである。

その後、日本の「琴」は再び大きな変化を迎える時代がやってくる。それは、日本から遠く離れた地において固有の文化を発展させた新たな民族の渡来によるものである。まだ〝箏のルーツを探る旅〟は続く。

エントランスで傘を取り、登呂博物館を後にすると雨はかなり小雨になっている。登呂のムラは、日本の歴史の豊穣さを表現するように、豊かに張った水面に明るんだ西の空を映し出していた。

夜には晴天に。

高嶺の雪を月明かりに浮かび上がらせた富士がしばらくの間、太古から変わらぬ眼差しで、東へひた走る筆者の帰路を見守っていた。

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大地、ものがたり(登呂中編)

槽作りの琴

登呂博物館において重要文化財「槽作りの琴」に出会った筆者は、展示棚の下段にあるその重文を食い入るように見つめていた、と思う。

そうした筆者の行動は、観覧者も少なく手持ち無沙汰にしていた解説員の注意を引いたようで、彼は筆者に近寄ると、琴よりも上段に展示してある鹿の骨について説明し始めた。

なんでも、骨を焼いて入ったひび割れで登呂の人が占いを行ったのだということで、中々に興味深い話ではあったが、たまたまその時の筆者にとっては全く場違いな話ではあったので、しばらく辛抱して耳を傾けた。

一般的には琴よりも占いの方がウリなのであろう。

それでも、占いに用いる「鹿」が神聖な存在であったという解説は収穫であった。鹿島神宮を取り上げるまでもなく、鹿を神獣とする文化が登呂に既に見られた、という事実を知ることが出来た。

…さて、いよいよ筆者は本題を切り出した。

「槽作りの琴」の槽とは、ハコのことであるそうだ。そもそも琴は板状のものが出土していて、それよりも後の時代になってハコを付けたものが出土している。登呂では、その両方が見られるのだという。

再現された「槽」

ハコを付けた方が音は共鳴して大きくなる。楽器としては技術的に進歩しているというわけだ。

板に付いている黒色のものについても説明があった。その正体は漆であり、楽器を保護する為に塗ったのだという。想像を交えて、なのだろうが再現したモデルが資料室に展示してあった。

漆塗りの琴は、ムラの風景の中でさぞ、鮮やかに映えたことであろう。

登呂は二千年前、弥生後期の集落であるが、周辺には縄文時代の遺跡も多い。つまり、縄文文明に折り重なるように弥生の文化はこの地に花開いたのである。

同じ登呂から出土した「壺型土器」の優美な姿を見ても、弥生時代の人々は、現代人とも引けを取らない審美眼を備えていたことが明らかだ。

きっと琴も、今の神事に伝わるように祭祀にも用いられたのだろうが、風物や喜怒哀楽を込めた演奏に、楽しみのために弾かれていたに違いない、そう筆者には思えたのだった。

もう一つ、かねてよりの疑問を説明員の人に投げかけてみた。

昔、歴史の学習漫画で、稲作の伝わる様子が描かれていて、一人の少年が米作りをするムラに派遣されて技術と種籾を自分のムラに持ち帰る、という描写があった。

果たして、稲作は「外人(異文化)」に教わった人が伝えたものなのか?

明快に回答していただいた。いや、渡来人が持ってきたものですよ、と。

これには我が意を得たり、と筆者は思った。

日本民族は混血民族である。この地に到来した人々は争うことなく融合し、それぞれの文化は重層的に日本文明を形成するのである。

稲作の技術をもった祖先は、縄文人の祖先と融合して、日本の稲作として定着していった。

琴も…「板作りの琴」から「槽作りの琴」へと、縄文日本人の琴と、弥生日本人の琴とが融合していったのである。

壺型土器(登呂遺跡)
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大地、ものがたり(登呂前編)

須山浅間神社参道

早朝から雨は降り続いていた。

高速は御殿場で降りて富士の裾野を走り、須山浅間神社に立ち寄る。

まるで誇張して描いたかのような巨木、その合間に築かれた参道や神殿を、山の精霊が包み込むように雨飛沫が覆っていた。

縄文の日本に渡来した人々が弥生の文明をもたらした。その中心は米作であったと言えるのだろうが、その祖先の痕跡に筆者は触れたくなって、筆者は東京から出発していたのである。

富士市のあたりから国道1号線バイパスに入る。ほとんど信号の無い高規格道路は空いていた。工場と町を抜けると駿河湾に沿って走るが、雨足はますます強まり、沖の方は霞んでいる。

静岡の地形は山地が海のすぐそばまで張り出していて、海と山との間の僅かな平地に街が形成されている。国道1号線を走っていると小漁港がいくつも出現してくる。太古からつい最近まで、人々は街と街を舟運で結んでいたはずである。

三保の松原で著明な半島にある清水港の、目についた中華店で定食を食べて、さらに1時間、車を飛ばすと目指す登呂に着いた。

そこは、何の変哲もない街並みの中に、ぽっかりとエアポケットのように田園が広がっている、不思議な空間だった。

登呂のムラにて

傘を差して濡れた畔道に踏み出してみたが、思ってたより踏み固められていて安心した。

当時のムラの倉庫や住居を再現したとこれまで、かなり歩かなければならない。田園は刈り取られた後のままの状態で、中心を用水路が流れている。

水たまりを飛び越えるようにして、ようやくムラの場所に到着した。竪穴式住居、高床式倉庫は学校での歴史学習でお馴染みのものである。

住居であったことを示す地形が幾つも見られ、結構な規模の集落であったことが伺える。

雨は依然として強く、広大な遺跡に、訪問客はまばらだった。ムラの散策をそこそこに切り上げて、筆者はまたぬかるんだ道を、隣接する博物館の建物を目指して歩いた。

例によって筆者は登呂についての学習不足であって、弥生の象徴である米作の痕跡が観られれば満足するつもりだった。

が、意外なことに、筆者の旅の本質に迫る出土品が登呂の博物館に待っていた。

何ということも無い板の切れ端を、筆者は危うく通り過ぎるところで、目に飛び込んできた文字に、強力な力で引き戻された心地がした。

……銘板には「重要文化財 槽作り琴」とあった。

槽作り琴
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