大地、ものがたり(登呂中編)

槽作りの琴

登呂博物館において重要文化財「槽作りの琴」に出会った筆者は、展示棚の下段にあるその重文を食い入るように見つめていた、と思う。

そうした筆者の行動は、観覧者も少なく手持ち無沙汰にしていた解説員の注意を引いたようで、彼は筆者に近寄ると、琴よりも上段に展示してある鹿の骨について説明し始めた。

なんでも、骨を焼いて入ったひび割れで登呂の人が占いを行ったのだということで、中々に興味深い話ではあったが、たまたまその時の筆者にとっては全く場違いな話ではあったので、しばらく辛抱して耳を傾けた。

一般的には琴よりも占いの方がウリなのであろう。

それでも、占いに用いる「鹿」が神聖な存在であったという解説は収穫であった。鹿島神宮を取り上げるまでもなく、鹿を神獣とする文化が登呂に既に見られた、という事実を知ることが出来た。

…さて、いよいよ筆者は本題を切り出した。

「槽作りの琴」の槽とは、ハコのことであるそうだ。そもそも琴は板状のものが出土していて、それよりも後の時代になってハコを付けたものが出土している。登呂では、その両方が見られるのだという。

再現された「槽」

ハコを付けた方が音は共鳴して大きくなる。楽器としては技術的に進歩しているというわけだ。

板に付いている黒色のものについても説明があった。その正体は漆であり、楽器を保護する為に塗ったのだという。想像を交えて、なのだろうが再現したモデルが資料室に展示してあった。

漆塗りの琴は、ムラの風景の中でさぞ、鮮やかに映えたことであろう。

登呂は二千年前、弥生後期の集落であるが、周辺には縄文時代の遺跡も多い。つまり、縄文文明に折り重なるように弥生の文化はこの地に花開いたのである。

同じ登呂から出土した「壺型土器」の優美な姿を見ても、弥生時代の人々は、現代人とも引けを取らない審美眼を備えていたことが明らかだ。

きっと琴も、今の神事に伝わるように祭祀にも用いられたのだろうが、風物や喜怒哀楽を込めた演奏に、楽しみのために弾かれていたに違いない、そう筆者には思えたのだった。

もう一つ、かねてよりの疑問を説明員の人に投げかけてみた。

昔、歴史の学習漫画で、稲作の伝わる様子が描かれていて、一人の少年が米作りをするムラに派遣されて技術と種籾を自分のムラに持ち帰る、という描写があった。

果たして、稲作は「外人(異文化)」に教わった人が伝えたものなのか?

明快に回答していただいた。いや、渡来人が持ってきたものですよ、と。

これには我が意を得たり、と筆者は思った。

日本民族は混血民族である。この地に到来した人々は争うことなく融合し、それぞれの文化は重層的に日本文明を形成するのである。

稲作の技術をもった祖先は、縄文人の祖先と融合して、日本の稲作として定着していった。

琴も…「板作りの琴」から「槽作りの琴」へと、縄文日本人の琴と、弥生日本人の琴とが融合していったのである。

壺型土器(登呂遺跡)
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大地、ものがたり(登呂前編)

須山浅間神社参道

早朝から雨は降り続いていた。

高速は御殿場で降りて富士の裾野を走り、須山浅間神社に立ち寄る。

まるで誇張して描いたかのような巨木、その合間に築かれた参道や神殿を、山の精霊が包み込むように雨飛沫が覆っていた。

縄文の日本に渡来した人々が弥生の文明をもたらした。その中心は米作であったと言えるのだろうが、その祖先の痕跡に筆者は触れたくなって、筆者は東京から出発していたのである。

富士市のあたりから国道1号線バイパスに入る。ほとんど信号の無い高規格道路は空いていた。工場と町を抜けると駿河湾に沿って走るが、雨足はますます強まり、沖の方は霞んでいる。

静岡の地形は山地が海のすぐそばまで張り出していて、海と山との間の僅かな平地に街が形成されている。国道1号線を走っていると小漁港がいくつも出現してくる。太古からつい最近まで、人々は街と街を舟運で結んでいたはずである。

三保の松原で著明な半島にある清水港の、目についた中華店で定食を食べて、さらに1時間、車を飛ばすと目指す登呂に着いた。

そこは、何の変哲もない街並みの中に、ぽっかりとエアポケットのように田園が広がっている、不思議な空間だった。

登呂のムラにて

傘を差して濡れた畔道に踏み出してみたが、思ってたより踏み固められていて安心した。

当時のムラの倉庫や住居を再現したとこれまで、かなり歩かなければならない。田園は刈り取られた後のままの状態で、中心を用水路が流れている。

水たまりを飛び越えるようにして、ようやくムラの場所に到着した。竪穴式住居、高床式倉庫は学校での歴史学習でお馴染みのものである。

住居であったことを示す地形が幾つも見られ、結構な規模の集落であったことが伺える。

雨は依然として強く、広大な遺跡に、訪問客はまばらだった。ムラの散策をそこそこに切り上げて、筆者はまたぬかるんだ道を、隣接する博物館の建物を目指して歩いた。

例によって筆者は登呂についての学習不足であって、弥生の象徴である米作の痕跡が観られれば満足するつもりだった。

が、意外なことに、筆者の旅の本質に迫る出土品が登呂の博物館に待っていた。

何ということも無い板の切れ端を、筆者は危うく通り過ぎるところで、目に飛び込んできた文字に、強力な力で引き戻された心地がした。

……銘板には「重要文化財 槽作り琴」とあった。

槽作り琴
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大地、ものがたり(岩宿後編)

岩宿遺跡は1949年、相沢忠洋氏が、たまたま通りかかった切り通しから露出していた石器を発見したことに始まる。

その地層は少なくとも一万五千年以上前の関東ローム層であった。

その後の学術調査により、三万五千年前、二万五千年前の地層からも石器が出土する。いずれも土器を伴わず、縄文時代よりも前から、人々の営みがこの地にあったことは疑いの余地が無い。

岩宿Ⅰ石器文化(三万五千年前)明治大学博物館
岩宿Ⅱ石器文化(二万五千年前)明治大学博物館

さて、石器であるが、人類が砕かれている石を道具として使うことは三百万年以上前から行われてきたと言われる。しかし、道具として石器を砂などで磨いて整えた磨製石器が用いられるのは3〜4万年前からのことである。

また、磨製石器をもって「文明」の発祥とする見方もある。

相沢忠洋氏の発見した槍先形尖頭器は、その形状から宮大工の使う槍カンナに通じている、との指摘もされる。

槍先形尖頭器(相沢忠洋記念館)

この日本列島では3〜4万年前から文明が育まれ、断絶することなく現代まで積み重ねられてきているのだ、と筆者には感じられる。

はるか過去から現代へ続く日本人の営みを、岩宿の丘陵はものがたっている。

落ち葉や枯れ枝を踏みしめながら丘を登る。

関東ローム層の露わになった大地は、また草木に覆われて、生命や人々の行く末を静かに見守っているようだ。

この〝岩宿時代〟から数万年文明を育んだ我々の祖先は、縄文の黄金期を迎えていく。

土器ばかりでなく石器の力で舟も作られ、縄文人はユーラシア大陸ばかりでなく南洋の島々、そして南北アメリカ大陸にまで足を延ばしていたことが近年の考古学調査により明らかになっている。

そうした祖先の営みは日本人の文化を豊かに実らせていくと共に、遠方で同じように育まれた人々と豊かな交流を発展させる時代を迎えるのである。

そして、筆者の追い求める〝絃楽器〟との出会いがやってくる……。

午後遅くなり、強まった赤城颪が丘陵を吹き抜けていく。

岩宿時代には気候も海岸の位置も違っていたとは思うが、赤城の山は現代ともそう違わぬ偉容であったことだろう。

長く裾野を引き、深く浅く刻み込まれた赤城の面影は、黙しているようで雄弁に人々の来し方を語り、包み込むように護り続けているのである。

岩宿ドーム(岩宿遺跡の遺構を保存する)
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