全ての小学校に伝統楽器(和楽器)を!プロジェクト

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終章…上毛野

田園と住居に囲まれた平野の中で、一段と高くなった高崎市・綿貫観音山古墳の、方墳と円墳とを繋ぐ鞍部に腰掛けていると、北に赤城山、西に妙義山、その間に榛名山のカルデラを囲む山々の連なりが遠くに望める。

日本以外での巨大な墳墓として知られるピラミッドは東西南北にきっちり合わせて築造されているらしいが、大和の古墳は方位とは関係ないように思われる。

しかし、なんとなく感じるのは、衛星写真など空から周りの景色と共に俯瞰すると、この観音山古墳の場合はすぐ近くの井野川、少し離れた利根川や烏川の流れの方向と同じ指向性をもっているのではないか、ということだ。

かつての河川は人や物の交流を司る動脈である。

大和としての統一国家を形成していった、当時の人々の意識の流れが、古墳の有り様に反映されているのではないかと筆者には思われる。

風に乗るようにして、無数のトンボが飛び交っている。

かつて近隣の街に住んでいた筆者は、この観音山古墳はたまの遊び場でもあった。既に発掘調査や整備なされた後において、子ども時代の風景の中に古墳は溶け込んでいた。

発掘調査まで盗掘を免れていたこの古墳の石室には、埋葬された主が横たわり、膨大な副葬品が収められていた。

そして外側は沢山の埴輪が設置されていて千五百年の時を護り続けていたのである。

最近、これらの出土品は国宝に指定された。

筆者は、この古墳を訪れる前、すぐ近くにある県立歴史博物館に立ち寄り、それらの国宝群を目の当たりにしてきた。

馬具や装飾品類は大陸由来のものが数多く、朝鮮半島諸国から大和朝廷への朝貢(朝貢とは現代でいう交易と等しい)の品であると伺え、すなわち大和朝廷と当地との強力な関係性を感じさせる。

ところで、埴輪群を眺めていて、やはりというか、当然ながらというか、千葉県の芝山遺跡の埴輪との同一性が思われた。

埴輪とは、この時代のある意味で奇異なトレンドである。

いわば、異民族性が大和へと融合してゆく過程の一刻を写し取ったのが、埴輪の形象するものなのだと思う。

多胡碑の「羊」なる人物名の刻まれた石碑と同じく、大陸からの渡来民族の痕跡と言えるのが埴輪である。

彼らは、男性のお下げ髪であるミズラの示すように、故知を追い出されディアスポラとなって日本へ到達した古代ユダヤ民族の支族であるのかもしれない。

古墳の存在は大和朝廷の勢力圏の拡大地域を意味するものであるらしいが、この大和朝廷にディアスポラ達は深く関与、帰化し大和民族へ融合していったのである。

そういえば、若い頃の京都の太秦の旅においても、ディアスポラ、とりわけユダヤ人由来と思われる痕跡を垣間見た。

さて、県立歴史博物館においては、もう一つ、思いがけず目を釘付けにしたものがあった。

縄文式土器である。

優美で力強く、極めて技巧的な土器の存在は、八千年前にはこの地に栄華を誇る文明があった、ということを示している。

古墳を築造した国力の源には、営々と続く文明があり、そこへ大和朝廷の麾下である渡来民族の知識や技術が合流した歴史的経緯を思わせるのである。

古代高句麗の民の渡来した高麗郡も、大規模な縄文集落の遺跡が存在していて、それは元来当地に古代の地域国家が存在していたことを示している。

登呂遺跡の旅では、縄文から弥生への過渡的な国家の在り様を垣間見せられた。

岩宿の旧石器時代の遺跡の示すように三万年前から縄文、弥生、そして大和朝廷へと、日本における文明の連続性が見られる。

日本人とは、その文明を背骨として、折々に渡来民族を融合しながら現代へと続いているのである。

かつて高天原でタケミカズチの睥睨した日本は、融合し新生する、現代へと続く日本そのものだった。

さて、いよいよ旅も終わりに近づいた。

この旅の目的は、筆者の携わる民族音楽である箏のルーツを探るものであった。

県立歴史博物館の埴輪の展示にある「三人童女」、これは絃楽器を弾く様子を形象していると言われる。

群馬県では前橋市の朝倉遺跡からも「琴を弾く少年」の埴輪が出土している。

日本へ到達したディアスポラ、渡来人達も当たり前だが楽器を持ってきていた。

登呂遺跡の琴のように、それ以前から日本には絃楽器が存在した。

楽器同士、古来のものへ渡来のものが融合していった、ということだろう。

箏のルーツとは、日本人のルーツである。

日本の文明を背骨に、日本人へ渡来の人々が融合していったように楽器も融合した。

日本の楽器、箏とは、日本人そのものなのである。

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渡来人の痕跡(多胡碑編)

群馬県の交通の要衝・商都である高崎。街の西方の観音山丘陵に白衣観音像が屹立し市街地を睥睨する。

その丘陵を超えて、さらに鏑川の橋を渡ると旧・吉井町(現・高崎市)に出る。

ところで、群馬県は一万二千基の古墳が造られたことからも分かる通り、古くから国々が栄え、多くの人々が往来をした土地である。

県の中央に位置する岩宿遺跡からは磨製石器が発見されたことは既に述べてきたが、数万年のスパンをもった文明は縄文時代においても、極めて芸術性と技巧に富んだ土器類を生み出している。

縄文海進の時期には海岸線が今の埼玉県央まで迫っていたこともあり、日本各地との海路による交流も容易であったと考えられ、この地には古代における国家群が生まれ栄えたであろうことは想像に難くない。

その後も、関東各地域と大河川で結ばれ、例えば千葉県・芝山遺跡における埴輪と群馬県の古墳群に置かれた埴輪の多くは、どうも千葉の同じ窯で製造されたものの様である。

このような地理的・歴史的背景から、群馬県を含む一帯はもともと強力な国々が存立していて、それらが早くから大和朝廷を棟梁とする統一国家を形成する枢要な拠点となっていったという事実が浮かび上がってくる。

日本の古墳というのは、大和朝廷の統治領域を示している、という話がある。その大和朝廷が日本列島における勢力を急速に拡大させた頃、朝鮮半島の国々との交流も盛んであった。

古代高句麗、百済、新羅、任那とあった国々は、任那の小国群は大和朝廷の統治下に、他の国々は中華皇帝に朝貢すると共に、大和朝廷への朝貢も行っていたという。

その朝貢による交易の証拠が、古墳群から見つかっている朝鮮半島由来と思われる器物群である。

新羅は朝鮮半島における大和朝廷の統治領域を攻略、唐との連合軍で百済を滅ぼす。やがて古代高句麗も滅ぼされ、高句麗の人々は日本へ逃れ大和朝廷に帰化を申し出る。高句麗からの人々は今の埼玉県日高市である高麗郡に封じられる。

新羅は朝鮮半島を一時的に支配下に収めるが、女真人豪族の興した新興国家である後高句麗に滅ぼされてしまう……。

朝鮮半島の動乱から逃れた人々は、高句麗ばかりでなく大量に日本へと渡来し、大和朝廷へ帰化するのである。

その渡来人の中には、ユーラシア大陸由来の優れた技術や文物を携えてきた人々もあった。

ここで話は旧・吉井町に戻る。

このエリアにはユネスコ記憶遺産となった上野三碑と呼ばれる多胡碑・山ノ上碑・金井沢碑が建つのだが、とりわけ711年に建立されたとみられる多胡碑は、大陸からの渡来人が大和朝廷に帰化し、その命によりこの地に集住することとなった史実を刻んだものである。

筆者は、小学生の折に上野三碑を学習として回ったことがあるので、ほぼ40年ぶりの再訪である。

午前の見学者もまばらな時間帯、手持ち無沙汰にしていた解説ボランティアの人にいろいろ話を聞くことができた。

その中で非常に興味を引いたのは、今の栃木県佐野市のあたりでは、渡来人の連れてきた羊を飼って、その羊毛によるフェルトを朝廷へ献上した、という話だった。

朝鮮半島に遊牧民はいない。

渡来人とは朝鮮半島由来の人々ばかりでなく、交易路でさらに北へ西へとつながったその彼方からやってきた民族もいたのではないのか、という推論が浮かんでくる。

ところで、群馬の名称の示す通り、群馬は馬の産地であり、騎馬の埴輪も出土している。むろん、日本列島に馬は存在しなかった。当然朝鮮半島にもいない。つまり馬も、大陸の騎馬民族の渡来が元になっているわけである。

なぜ解説員の人と羊の話をしたのかというと、この多胡碑には「羊」という人物の名前が刻まれていたからだった。

『弁官符上野国片野郡緑野郡甘

良郡并三郡内三百戸郡成給

成多胡郡和銅四年三月九日甲寅

宣左中弁正五位下多治比真人

太政官二品穂積親王左太臣正二

位石上尊右太臣正二位藤原尊』

羊、という人に多胡郡の支配を任せる、という内容なのだが、なぜこのような栄誉が与えられたのかというと、この朝廷の命が下された日付にある元号に注目する必要がある。

和銅、とある。

この元号は、日本初の独自の貨幣である「和同開珎」が造幣されたことを記念するものだ。

羊と呼ばれる人の一族は、今の埼玉県秩父地方から銅を産出させ、貨幣を鋳造したのである。この優れた技術と大和朝廷への貢献という業績が、大きく称えられたわけだ。

筆者は、この「羊」の文字が見たくて当地を訪問したのだった。

多胡碑に刻まれた多胡郡の渡来の人々は、古代高句麗が滅ぼされて逃れ来た高麗郡の人々と違って由来が判然としない。

新羅人、という話もあるが、新羅が滅びたのは十世紀なので、ちょっと考えにくいだろう。

おそらく「羊」という名の由来となった遊牧民であって、鋳造技術など優れた技術を持ち、ユーラシア大陸深くから朝鮮半島などを経てきた人々、だったのではないのか。

ユーラシア大陸の民や芸術・技術のコスモロジーが、数万年続いてきた日本文明へと融合していく過程に、この多胡碑は創出されたのではないか。

多くの示唆を携えて、筆者は多胡碑を後にした。

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