高天原

筆者が筑波山の麓に立ったのは、山には厳かに雲がかかり、田に水が満たされる、まさにそんな時季だった。

筑波山には筑波山神社があり、イザナギ・イザナミを祀っている。ここが日本の国生みと密接に結びついた土地であることを物語っているように感じられる。

太平洋に面した関東地方北部、筑波山のある茨城県一帯を、かつては常陸(ひたち)国と呼んだ。

各地の言い伝え等をまとめた「常陸国風土記」によると、今でいう知事にあたる国造として遣わされた那良珠命(ひならすのみこと)が井戸を掘らせると清く澄んだ水が湧き、その水を愛でた折に袖が浸り、泉に滴ったという故事が挙げられている。

そして「筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもひでたち)の国というはこれなり。」と記されている。常陸(ひたち)の国名由来を示すエピソードの一つだ。

新井白石はアマテラス(日神)が立つ、すなわち日立が由来である、とした。

白石はそこから、古事記など記紀にある「高天原」は常陸国にあった、と主張する。「高天原」とは日本神話にある、天津神の居ましたもう天上の場所のことだ。

日本神話が、歴史を抽象化したものであるとの理解の基に考えると、日本国が建国される以前の国家が「高天原」なのではないか、という話になる。

神道の祭祀における大祓詞(おおはらえのことば)では国史が語られているが、高天原により「大倭日高見国」が統治の中心に据えられたことが述べられている。

日本建国と創建を一にする鹿島神宮は、かつての統治の中心が鹿島にあったことを示している、と以前に考察した。「日高見国」とは鹿島を中心とした古代の日本国の姿である、というのが筆者の考えである。

その日高見国を作ったのが「高天原」なのである。

実は、現在の鹿嶋市に「高天原」が実在する。

鹿島灘に面した「東一之鳥居」から現在の鹿島神宮を結ぶ線上に「鹿嶋市高天原」という地名がある。

ちなみに、その線をさらに延長すると「西一之鳥居」となり、さらにその先には香取神宮がある。また、わずかに北東寄りのその直線は、どうも夏至の黄道に一致するようだ。

そうした地理的条件を鑑みれば、「鹿嶋市高天原」とはもともと鹿島神宮の祭祀に深く関係した土地であり、日高見国にとっての故地にちなんだ呼称なのだろうと筆者は推測する。

筆者がこれから、筑波山を出発して目指すのは、その鹿嶋市高天原である。

イザナギ・イザナミを祀る筑波岳はもしかしたらいにしえの高天原であり、ここから鹿島への道程は、かつて神々の歩んだ道であるのかもしれない。

衣を水に漬す心から常陸とはよく言ったもので……筆者が筑波山神社の鳥居から出発すると、突然に大粒の雨が降り始めた。

山岳路をひた走り、分岐点から鹿島方面へ、さらに狭く急峻な峠を下り始めた。風雨と共に樹木から滴る水滴が車の屋根を叩く。

時折、対向車とギリギリの離合を行う。少しウインドウを開けると相手方とすれ違いざま焼けたクラッチのにおいがした。

峠を下りきると、果樹園の広がるなだらかな台地に出た。そこを抜けると田畑と集落が交互に現れる。

雨が弱まり穏やかになった車窓には、田植えの終わった水田がうつり、また古い板塀の多い街並みを抜けた。

常陸国風土記には、〝広い土地に海山の産物も多く、人々は豊かに暮らし、まるで常世の国のようだ〟と記述されている。

まるで豊かな森に被われた神域にあるかのような錯覚を覚えながら常陸路を進んだ。

やがて地形はすっかり平坦となるが、さらに東へ東へと進む。

廃線の終着駅跡の横を過ぎ、鄙びた街をいくつか抜けると、ついに海岸線近くまで到達し、鹿島灘に沿った国道をしばらく南下する。風雨がまた烈しくなってきた。

夕暮れまではまだ時間があるはずだが、対向車は皆ヘッドライトを点けていた。海は煙って見えなかった。

バイパスと旧道との交錯する交差点を東に向けると、ようやく鹿島神宮「東一之鳥居」に到着したのである。

鳥居は「西一之鳥居」と比べるとかなり小振りではあったが、白波の厳しく打ちつける鹿島灘と風雨の中、きっかりと太陽に向かって屹立していた。

雨が塩辛い。

筆者が鹿島灘から踵を返すと、鹿嶋灯台が明滅しているのが見えた。その灯台のある台地上に「高天原」があるはずだ。

日本建国にあたりタケミカズチが差配され鹿島へ日高見国の中枢を築く以前に、古代国家の中心である「高天原」があった。

鹿島神宮の祭神でもあるタケミカズチは、鹿島灘を見下ろす高天原と名付けられたこの丘から国を睥睨したのだと伝わる。

鹿島灘から、海岸段丘を登る路を辿っていくとすぐに「鹿嶋市高天原」に出た。終戦あたりまでは河川のある森であったらしいのだか、現在は社宅や戸建て住宅の建て込んだ何の変哲も無い風景が広がっていた。

高天原地区の隅の丘に、朱の案内看板が「高天原」の由来を示しているばかりだ。

筆者は道路脇のその看板から、さらに丘の方向へ行ってみようと草叢に入りかけたが、一度弱まった雨が再び烈しくなり諦めた。

今は住宅の陰になり見えぬ鹿島灘の潮騒を聞きながら、タケミカズチの立った(であろう)この地でただただ、神話の「高天原」から鹿島の「高天原」への道程を偲ぶばかりだった。

初夏ではあるが風雨の中、外を歩き回ったので寒い。

上着もすっかり濡れそぼって袖からも水が滴っている。

筆者は、ヒーターのスイッチを最強に入れた。

カテゴリー: 箏のルーツを探る | 高天原 はコメントを受け付けていません。

渡来人の痕跡(高麗編)

埼玉県西部、日高市はセメントの街だ。

日高に近づくと、太平洋セメントのでっかい煙突。工場の周りは住宅地になってるが、道のところどころで、かつて原料や製品を運んでいた専用線の廃線跡を渡る。

セメント工場からさらに西へ、関東平野と関東山地が混ざり合っているような丘陵に、出世明神との異名をとる神社がある、と知人から聞いたのは10年ほど前であったか。

筆者の地元より、遠からず近からず。思い立つと件の地に吸い寄せられるように車を走らせいた。

現在の埼玉県日高市にあるこの地は、かつて「武蔵国高麗郡」と呼ばれていた。

この高麗とは、朝鮮半島にあった古代の高句麗国に由来する名称である。

高句麗は高麗(こま)とも呼ばれ、満州族の祖先・女真人による国であった。日本の年表で言うところの弥生から飛鳥時代あたりまで存在していたが、いまの朝鮮族、韓人の国である新羅に滅ぼされ、王族や高句麗人は日本へ逃れて大和朝廷に帰化した。

この高麗の人々は、朝廷の命により今の埼玉県の西部にある日高市に集められ高麗郡が建郡なされる。今から千三百年前の話である。

郡長には、当時高句麗から使者として大和朝廷に赴き、新羅による侵略により窮地に陥る母国の救援要請にあたっていた古代高句麗王族の血族にあたる高麗若光が任ぜられ、日本において「高麗王」と呼ばれるようになる。

セメント工場のある平地から山手へ向かう。

市街地や小集落を抜け、高麗川のある谷を渡りまた登っていくと拓けた丘陵地帯に入る。

等高線に沿うような緩やかにカーブする道を進むと、やがて山肌に、鄙においては目を見張るような大規模な伽藍を有する寺院が目に飛び込んできた。そこが聖天院であることを地図で確認した。

「高麗王」の霊廟が、この寺院の境内にある。

脇道に入り、田畑の中を進むと聖天院の駐車場が現れる。車をそこへ入れ、山の斜面に配された伽藍を眺めながら、浅草の雷門のような大きな提灯をつるした山門に向かって参道を上り、その山門の手前を右方向へ進むと小さなお社のような霊廟が姿を見せた。

その霊廟の門をくぐると、その傍らには、「羊」の石像が霊廟に寄り添うように置かれていた。

この石羊について調べてみると、日本に縁のある英国人エリザベス・アンナ・ゴルドン女史の中国・朝鮮の調査により一般に知られていることが分かった。

石羊は李氏朝鮮時代に、王陵の守護として置かれたらしい。

霊廟の石像はそうした故事に因んで、どなたかが寄贈されたもののようだ。近隣都市である川越市の文字と氏名が傍らに刻まれていた。

ちなみに、李氏朝鮮時代の朝鮮半島は歴代中華皇帝に隷属する地域、いわゆる中国の一部であったが、そこで韓人を支配していた李氏とは、古代高句麗の王族と縁は無いものの同じ女真人であった。

古代の日本に羊は存在しなかった。

高麗の人々のような渡来人が羊を大陸から持ち込んだ、という記録は残っている。

聞いた話だけれども、栃木県佐野市では羊毛生産が行われ、その羊毛によるフェルトが朝廷へ献上されたのだと。しかし産業として定着することなく、すぐに廃れてしまう。

しかし遊牧の民の記憶は、渡来人によって今の日本人に織り込まれているに違いないだろう。

高麗王を祀る霊廟から山裾の道を北へ進むと、すぐ、高麗王こと高麗若光を主祭神とする高麗神社の鳥居が目に飛び込んできた。

高麗神社の境内は明るい雰囲気で、散策が心地よい。

長い参道を歩いて行くと奥が一段高くなり、そこにまだ真新しい白木が眩く感じられる拝殿が置かれていた。地酒の〝高麗王〟の樽が奉納され積み上げられている。

境内の木々や燈籠などには、皇族や著名な政治家の名前が目立つ。

出世稲荷の異名をとる所以だ。

朝鮮半島縁の神社であるためか、韓国の政府や民間の友好団体の名前も多く観られた。

神社の様式は純然たる日本のそれ、であるが、「天下大将軍・地下女将軍」と書かれた魔除けである将軍標も境内にはある。朝鮮半島の村落の境界に置かれた、トーテムボールのような二本対の大きな柱である。

何となく風物が日韓折衷の感じもするが、それはあくまでも現代の〝味付け〟であるのだろう。神社としては神道の祭祀の様式から全く外れるものでは無い。

そして、代々の高麗神社宮司は、高麗若光の末裔が務めている。

なお、平成27年には非公式ではあるけれど天皇・皇后両陛下も神社を訪れている。

高麗王とは、大和朝廷から与えられた呼称であるが、どうも皇室の家系図にも列せられているようである。

高麗の郷には曼珠沙華の群生で有名な巾着田があり、隣接するようにして「高麗村石器時代住居跡」がある。

住居跡とは縄文時代の竪穴式住居群で、この地が古くから拓かれた場所であったことを示していると言えるだろう。

筆者は霊廟と高麗神社を辞した後、この住居群に立ち寄ってみた。

国道脇に車を停めて、果樹や畑の横のちょっとした丘を登っていくと、きれいに見学用に整備された竪穴の跡が寄り重なるように残されている。

河川も近く狩りや採取にも適した山にも近く、古くから人々が集住してきた、「高麗郡」の豊穣さを感じさせるものだった。

関連動画「渡来人の伝説・高麗本郷」

カテゴリー: 箏のルーツを探る | 渡来人の痕跡(高麗編) はコメントを受け付けていません。

渡来人の痕跡(芝山の丘編)

大型旅客機が頭上を舐めるように通過していく。

芝山遺跡は成田空港にアプローチする航空機の、進入経路の真下に位置している。

世界で最も過密な空港の一つである成田は、世界中から飛来してきた旅客機を、今日も次々に迎い入れていた。

芝山町営の博物館に隣接した公園の丘には、レプリカの埴輪群が並んでいて、筆者は旅客機のエンジン音を背景に、それらの埴輪に見入っていたのである。

ここまで来る道すがら、車を走らせていると街角に埴輪のモニュメントが立っていてギョッとさせられた。

芝山町内の道のあらゆるところに埴輪が立たされている……愉快な街のギミックではあるが、初めてであると驚愕してハンドルを誤りそうになる。

そうして丘陵を縫って登っていくと、〝彼ら〟の本拠地が現れた。

特徴的な帽子や美豆良(もみあげ)、こうした習俗は埴輪だけに観られる特徴である。

この芝山に出土する埴輪群は、今の千葉県内にある窯で製造されたものなのだという。二カ所あった窯元から関東を中心とした広域へ運ばれて、その各地の古墳から出土しているのである。

筆者の故郷である群馬県においても大量の埴輪が出ているが、その意匠は芝山のそれとほぼ同じに思われる。

この埴輪に模されている人びとは、各地を朝廷に任ぜられて治める豪族に仕えていた一族である。

埴輪の造られた5世紀の頃は、大和朝廷が大量の渡来人を受け入れて帰化させていた時期に重なる。こうした渡来人たちは携えてきた技術や知識をもって朝廷に仕えた。

埴輪の三角の帽子、美豆良。その特徴的な習俗は、東北大学名誉教授で美学者の田中英道氏はユダヤ教徒の特徴との相関性を指摘している。

イスラエルを追い出された古代ユダヤ人は、東西へ散り散りになるが、その末裔は日本へと辿り着いたのではないか。その証拠が、埴輪の意匠だと言うわけである。

遺伝子にあるY染色体は父から息子へと男性に受け継がれるものだが、日本人のY染色体の40%にはYAPと呼ばれる特徴的な遺伝子配列が観られるのだという。

素人なので伝聞話を詳述できないが、このYAPという遺伝子配列の特徴が、古代ユダヤ人の人々の末裔に観られるのだと。

博物館をひとまわりして、あらためて丘の〝埴輪たち〟を眺めると、背景を飛ぶ外国からの旅客機と相まって、異国情緒のような感慨が襲いかかってきた。

埴輪は、3世紀後半から6世紀後半にかけて盛んに作られた。

その中には「琴」を弾く埴輪ももちろんあった。

そして、日本の土木技術の粋である前方後円墳の出現とともに、埴輪はパッタリと造られなくなる。

いわゆる律令国家である日本の成立する前には、渡来したユダヤ人文化を形象していたかもしれない、あの豊かに表現された埴輪の習俗は跡形もなく消え去るのである。

京都・太秦の旅で触れたが、公式にユダヤ人国家であった弓月国の末裔と記録されている秦氏は、平安京造営など朝廷のもと重要な役割を果たしているが、その伝えられる習俗は既に日本人のそれ、であった。

渡来帰化人は、対岸のユーラシア大陸各地から到来しているが、秦氏の系統は間違いなく数も多く主流である。

埴輪は、その秦氏の先祖の一族が日本各地に赴いていたことを示しているのではないのだろうか。

異国の習俗を湛える埴輪とともに芝山の丘に立っていると、また一機、頭上にエンジン音をとどろかせながら異国のマーキングを施された旅客機が、すぐ隣町の滑走路へ向かって消えてしていった。

カテゴリー: 箏のルーツを探る | 渡来人の痕跡(芝山の丘編) はコメントを受け付けていません。