大地、ものがたり(岩宿後編)

岩宿遺跡は1949年、相沢忠洋氏が、たまたま通りかかった切り通しから露出していた石器を発見したことに始まる。

その地層は少なくとも一万五千年以上前の関東ローム層であった。

その後の学術調査により、三万五千年前、二万五千年前の地層からも石器が出土する。いずれも土器を伴わず、縄文時代よりも前から、人々の営みがこの地にあったことは疑いの余地が無い。

岩宿Ⅰ石器文化(三万五千年前)明治大学博物館
岩宿Ⅱ石器文化(二万五千年前)明治大学博物館

さて、石器であるが、人類が砕かれている石を道具として使うことは三百万年以上前から行われてきたと言われる。しかし、道具として石器を砂などで磨いて整えた磨製石器が用いられるのは3〜4万年前からのことである。

また、磨製石器をもって「文明」の発祥とする見方もある。

相沢忠洋氏の発見した槍先形尖頭器は、その形状から宮大工の使う槍カンナに通じている、との指摘もされる。

槍先形尖頭器(相沢忠洋記念館)

この日本列島では3〜4万年前から文明が育まれ、断絶することなく現代まで積み重ねられてきているのだ、と筆者には感じられる。

はるか過去から現代へ続く日本人の営みを、岩宿の丘陵はものがたっている。

落ち葉や枯れ枝を踏みしめながら丘を登る。

関東ローム層の露わになった大地は、また草木に覆われて、生命や人々の行く末を静かに見守っているようだ。

この〝岩宿時代〟から数万年文明を育んだ我々の祖先は、縄文の黄金期を迎えていく。

土器ばかりでなく石器の力で舟も作られ、縄文人はユーラシア大陸ばかりでなく南洋の島々、そして南北アメリカ大陸にまで足を延ばしていたことが近年の考古学調査により明らかになっている。

そうした祖先の営みは日本人の文化を豊かに実らせていくと共に、遠方で同じように育まれた人々と豊かな交流を発展させる時代を迎えるのである。

そして、筆者の追い求める〝絃楽器〟との出会いがやってくる……。

午後遅くなり、強まった赤城颪が丘陵を吹き抜けていく。

岩宿時代には気候も海岸の位置も違っていたとは思うが、赤城の山は現代ともそう違わぬ偉容であったことだろう。

長く裾野を引き、深く浅く刻み込まれた赤城の面影は、黙しているようで雄弁に人々の来し方を語り、包み込むように護り続けているのである。

岩宿ドーム(岩宿遺跡の遺構を保存する)
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大地、ものがたり(岩宿前編)

箏のルーツを探る旅は、日本人の記憶を遡る道程でもある。

「鹿島」に垣間見える古代日本に、秦氏のように日本を目指したディアスポラ、渡来人達の文化が折り重なり、今に続く日本文化が育まれてきたことをここまで述べてきた。

さらに旅を深化させて、日本の本質に触れてみたいと思う。

過去の歴史を探る旅は、想像力を働かせることが肝要であるけれども、旅先で触れる事物はとても具体的だ。

その具体的事物に遺された痕跡が物語る、我々の祖先の姿を垣間見させるのは、想像力ではなくて感性だと思う。

筆者には想像力にも感性にも自信が持てず、だからこそ、もっと近づいて事物に触れるべく旅に出るのだ。

日本文明の萌し、そこに想像を巡らせた時、すぐに行くべき場所は決まった。

陽射しは春日だけれども、風はまだ冷たかった。山の向こう側は春先の降雪に見舞われてるはずだ。

その山の麓、赤城神社に立ち寄る。

三夜沢赤城神社にて

赤城神社の祭神は赤城神であり、カルデラ湖とその外輪山全体が御神体である。

山岳信仰は古くからあり、日本における人々の営みと共に形成されたものである。古代日本人の心の在り方が、そのまま神道の様式を身に纏っているように感じる。

鹿島神宮が人間の精神の深淵の顕現なされたものだとすれば、山の神は大地そのものの息吹であると思われる。

赤城神社参道から麓方向を望む

冷たい赤城颪が参道を向かう方から真っ直ぐに吹き下ろしてくる。手水の湧き水を口に含むと、全身に染み渡るような清浄と静寂を感じた。

沖積平野である関東の北端に位置する、一連の山々が形成されたのは五十万年前の噴火に遡るとも言われる。

その頃、人類はアフリカに発生して世界各地へ旅を始めていた筈である。

日本列島の自然は人類の到来を受け入れた。

赤城山も、日本人の祖先が関東に到来し、そこへまたまたディアスポラが加わって栄えてきた人々の歴史を見守ってきた。

山岳信仰は、人間の精神活動に深く関わる天文現象と対をなす大地の生命への、人々の畏敬である、と筆者は思う。

さて、岩宿は赤城神社から車で30分の行程だ。

赤城山の等高線に沿うような広域農道を東へ走ると、時折、関東平野がずっと見通せる景色を見ることが出来る。麓では冷たい風が吹き下ろしてるとは言え、遠景の平野は霞んで春の空気に覆われているようだ。

東から向きを変え南進、等高線を直角に山を駆け下りていく。やや平野になりかける当たりの丘陵が岩宿遺跡だ。

相も変わらず、下調べをそこそこに思い立ってやってきたので、果たして、遺跡に併設する施設は全て閉まっていた。そう言えば、赤城神社の社務所も臨時休業だった。

しかし、岩宿で大事なのは、磨製石器群を発見した丘である。

実は資料館のある広大な公園を一周して休業に気がついた後ではあったが、あらためて車に乗り公園の駐車場を出て、木々に覆われた丘の切り通しを走り抜けると左手に稲荷社の朱の鳥居があった。

まさにそこが文明発祥の証とも言える磨製石器の、発掘現場だった。

岩宿遺跡
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オリエント、太陽へ向かって(太秦後編)

木嶋神社は正式には「木島坐天照御魂神社」と言う。境内に摂社として養蚕神社があり、そのため通称「蚕の社」と呼ばれる。かつて養蚕・機織・染織技術の中心地に座し、今でも製糸業者の信仰が残るのだという。

そして、渡来人である秦氏の氏神様である。

秦氏とは、平安初期に編まれた「新撰姓氏録」によれば、秦氏は渡来人を意味する〝諸藩〟に分類されており、秦の始皇帝の末裔であり応神天皇14年(283年)百済より来日して帰化した弓月君が祖である。推古天皇に仕えた秦河勝が著名であるが、秦氏は携えてきた技術や知識により栄え、朝廷に貢献した。

また秦氏の末裔には東儀家など、現代に至るまで雅楽を担ってきた楽家も多い。日本の伝統音楽には、秦氏のような渡来人の芸能の影響も強く受けているのではないだろうか。

渡来人は、帰化した当初こそ固有の文化・文明を身に纏っていたことだろうが、次第にに日本の統治に溶け込み、「日本人」となっていく。

秦氏の祖は弓月君と述べたが、弓月とは西域にあった国の名称で、この国は景教つまり東方教会の流れにあるキリスト教徒の国であり、秦氏もネストリウス派とも呼ばれるキリスト教の信仰をもっていた、と言われる。つまり日本には早ければ三世紀にはキリスト教が上陸していた。しかしキリスト教は広まったり残ったりすることはなく、渡来帰化人から日本人へ同化していくと共に、在来の神仏へと溶け込んでいくのである。

資料① 国会図書館「新撰姓氏録」原本出版年不明
資料② 国会図書館「新撰姓氏録」原本出版年不明

さて、木嶋神社は秦河勝が開基した秦氏の氏寺である広隆寺創建の折に勧進されたとも言われているが、雑多な印象の太秦の街並みから鳥居をくぐると空気が一変するのを感じる。

「元糺の森」とも呼ばれている木々に包まれた境内を奥に進んでいくと、浅いプールのようになった「元糺の池」があり、その更に奥が竹垣に隔てられていた。

元糺の池

ちなみにこの元糺の池は、つい最近までは豊富な湧水に満たされていたということだが、現在では涸れている。この池に身体を浸すと病が治る、という信仰もあり、夏の土用の丑に行われる「御手洗祭」などの折には地下水で満たされ名残を留める。

その池の竹垣の奥から水が湧き出ていたはずである。

そして、そこには「三柱鳥居」があった。この鳥居を目の当たりにするために、ここまで来たのだ。

現在のものは江戸時代の石造であるが、それ以前は木造であった。

神社の由来案内看板には、「一説には景教(キリスト教の一派ネストル教 約千三〇〇年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと云われている」とある。

秦氏は百済から渡来しているが、その由来を弓月君(融通王)に辿ることができる。当時、推定人口60万人の日本に弓月君に牽かれ大挙帰化した彼らは最大で20万人にも及んだらしい。そうして日本各地の渡来人、秦氏へと繋がる。

現在の中国とカザフスタン国境付近にあったと伝えられる弓月国が弓月君のルーツであるが、弓月国はディアスポラとなった古代ユダヤ人の作った国であったと言われている。

秦氏が大和朝廷に使者を送り帰化の申し入れをしている頃の当時の朝鮮半島はどのような状況であったか。

朝鮮半島の北半分は、紀元前1世紀から「高句麗」という王族も民も満州人の国が存在し、4世紀末から5世紀にかけての最大版図では現在の中国東北部に至るまでを統治していた。そして半島の南半分に百済・任那・新羅とがあり、これらは韓人、今の韓国人の祖先の国である。

うち、任那は前方後円墳も存在していることから、大和朝廷の支配下にあったと考えられる。百済も新羅も大和朝廷への朝貢国であったが、中華皇帝への朝貢も行っていた。

なお、隋を滅ぼした唐は高句麗を滅ぼす。この高句麗から追われた王族の一群も日本へ渡来、帰化して高麗郡に封じられていて、その高麗王は日本の皇室の家系図にあるが、詳しくは後の旅で調べる予定である。

新羅は唐の後ろ盾により任那、そして百済を滅ぼすが、その百済へ大和朝廷が援軍を送った事件が白村江の戦いである。新羅は韓人として初めて朝鮮半島を統治下に置くことになるが、唐の衰退と共に再び満州人豪族である王建の建国した高麗に降伏をする……。

話がやや逸脱したが、つまり、非常に不安定な朝鮮半島において、弓月国の末裔であり、漢民族でも満州人でもなく韓人でもない、おそらくがユダヤ人ディアスポラであり、東アジアではまさに異民族であった秦氏の一族は、大和朝廷への帰化を懇願せざるを得ない事態に陥っていたことが想像される。

新羅の妨害を避けて、ようやく秦氏一族は新天地に到達して、音楽を含めた文化・技術をもって、日本人として繁栄を極めていくのである。三柱鳥居は、日本人に融合していった秦氏の、残像のように残った渡来人としての魂魄が、かろうじて形象化された存在だったのではなかろうか。

筆者は、涸れた元糺の池に踏み込んだ。さらに奥に進むと、竹垣の向こうの〝泉〟のただ中にそれはあった。

木洩れ日を眩げに浴びながら、それはただ、そこに佇んでいた。

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