鹿島立ち(中編)

(二之鳥居)

東日本大震災では鹿島神宮も大きな揺れに見舞われた。

平成23年3月23日、午後2時46分鹿嶋地方震度6弱、本殿が鳴動し、本殿の千木(神殿の大棟の両端に載せるX上の材)落御、石の大鳥居(二之鳥居)にひびが入り、石灯篭62基が崩壊する。30分後の震度6弱の余震において大鳥居は倒壊した。

翌月から建物や石灯篭の修復がなされる。千木の復旧工事をクレーン車を使用して実施、工事終了と同時に「一天俄にかき曇り、雷鳴が轟渡」った、と記録されている。

倒壊した石の大鳥居は鹿島神宮本来の木によって再建されることとなる。境内の杉の巨木から、二本の柱は樹齢5百年、笠木は樹齢6百年、貫は樹齢3百年の4本を使用して、平成26年の初夏には再建された。

ちなみに、西の一之鳥居はこの二之鳥居再建の前年に建て替えられたものである。陸上にあったものを、昔のように水中に建てることとして、鹿島の製鉄所で生産された対候性鋼板を使用した高さ28メートルの大鳥居が竣工する運びとなった。

その一之鳥居に迎えられ氏子の住まう街を通り抜けて参じた二之鳥居は、まさに目の前だった。

鹿島神宮の要石はその大部分が地中に埋まっているとされ、地震を鎮めているとされる。被災しながらも神宮の周囲の街は守られ、神域の損害も僅かにとどまり、その一身で災いを引き受けた大鳥居は、神木によって蘇った。

(要石)

白木の大鳥居をくぐると、神宮の森に包み込まれるが寒くなく、心地よい冷たさの清逸な空気に満ちていた。鳥居を振り返ると、午後の日差しがまるで光輪のように見受けられた。

鹿島神宮の大鳥居は西を向いている。つまり、参拝者は日の上る方向へ向かうように神域へ足を踏み入れることになるのである。東へ向かって進んでいくと、右手に拝殿があらわれてくる。東へ向かっていた参拝者は東から西へと日が動くさまを捉える南へ向きを変えて大神と相対するわけだ。

祭神はタケミカズチ…であるが、お日様そのものを拝する神殿のあり様は大変興味深い。が、実は筆者は拝殿を通り過ぎ、さらに奥まった参道を奥宮へと歩いていた。鳥居をまっすぐ進むと拝殿、という多くの神社にみられる配置による思い込みにとらわれていたのだった。

奥宮とは、拝殿が現在の位置に移動する前の場所に設置されている。その幽玄なる佇まいもさることながら、周りのあまりにも深い静寂は、拝殿を介さずとも神々のおられる領域に踏み込んでいることを存分に感じさせた。

(奥宮)

奥宮の脇をすり抜けていくと、要石がある。わずかな部分だけが地表に現れているが、その霊力が神宮全体、もしかすると日本という国全体を安定させるための重しとして機能しているようにも思われた。

そして拝殿方向へもどり始めたのであるが、その帰路はさらに精妙な感覚が研ぎ澄まされてきて、木々を通り抜けて注ぎ込んでくる陽光が下草や地面を照らす中に、神々の存在を感じてしかたがない、そんな心地である。

やがて向こう側からの陽光に浮かび上がる、楼門のシルエットが見えると拝殿前に到着した。そしてようやく、神宮の霊気が全身に行き渡った状態で大神を参拝することができたのである。

筆者が若い頃に触れた、旧約聖書に著された神々には大変に活動的な印象を受けたものだったが、日の通り道である黄道そのものを拝するダイナミズムを湛えながらも我々の神々は、実に静寂のうちにあった。

(鹿島立ち 後編へ続く)

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鹿島立ち(前編)

(鹿島神宮拝殿前にて筆者)

思い立ったのは節分を過ぎて、春めいた陽光が都心の街をやわらかく包んでいた、そんな日であった。晩からは再び寒波が到来すると予報が出ていた。

■日出ずる処、香嶋

目指す鹿島神宮の鎮座する地は、〝香嶋〟(常陸国風土記)と呼ばれ、海山の幸に恵まれた豊穣の地であったと言われている。

筑波山を望み、西に霞ケ浦、東に鹿島灘…すなわち交通の要衝であり、縄文の頃より政治の中心地であった。

鹿島神宮の祭神はタケミカヅチ、古事記に拠れば高天原から大国主神の統べる出雲に派遣され、タケミナカタと力くらべの後に諏訪まで追い詰め、ついには国譲りを承諾させる。日本書紀では隣の香取市にある香取神宮の祭神である経津主神と二人で国譲りの交渉にあたった、とある。

出雲を高天原が統べたことにより、今に至る日本国家が成立し、神武天皇は即位なされるとタケミカヅチを武甕槌大神として鹿島の地に鎮座した、これが鹿島神宮の創建が日本建国と同年である、紀元前660年とされる由縁である。

鹿島は日本の東の果て、つまり太陽が昇り、一日の始まる処として大切にされていた、そこから「鹿島立ち」という言葉が生まれたと、本稿の参考にさせていただいた神宮の冊子において指摘なされている。

さて、箏のルーツは日本人のルーツ、と筆者は確信している。弦楽器は中東アジア地域で発生したと言われているが、弦楽器を携えたデイアスポラ(離散民族)が日出ずる処の国へ渡来しその国に融合し、そして日本人の祖先となる、そうした歴史的事実の発生したこの日本とは、いかなる地であったのか。

まずは日本人たる民族、日本という国のルーツを明らかにせねばなるまい。故のこの度の「鹿島立ち」である。

鹿島行きを決めたとたんに、筆者は何ものかの、強い力で引きつけられる心地を感じるままに車を飛ばしたのである。

■一之鳥居と鎌足神社

(西の一之鳥居)

都心を出たのは、所用を終えた昼過ぎであった。

少しずつ日が傾いていく中の行程であったが、天候に恵まれていて、柏あたりから利根川の北岸に沿って進む道は特に素晴らしかった。

降り注ぐ陽光を浴びながら、車窓から入る風は適度に冷えていて、高まっていた高揚感を過度になさせしめない程度に冷却する様が心地良い。

大利根の飛行場で離発着をするモーターグライダーを眺めながら進み、やがて利根川から離れると潮来を通過して北浦に架かる神宮橋に差し掛かった。

と、突然視野に朱塗りの大鳥居が右手前方の水面に飛び込んできたのである。午後の日射しに照らされ鮮やかに浮かび上がって見える。

知ったかぶりで前置きを述べてきたものの実は、あまりにも下調べや予備知識の不足するままやってきたので、鳥居の出現には心底驚き、橋を渡りきってからすぐの信号で街道を右手へ外れて路地へ入り、住宅街を湖岸と思われる方向へ右折した。

と、この道で正解、とばかりにあの大鳥居が現れたのだった。

案内看板に「西の一之鳥居」とある。

太陽を背に受けた鳥居のシルエットを岸壁で見上げながら、ああ、本当に正しい入り口にたどり着いたんだな、そう心の中で反芻していた。

ならば、と振り返って、先の方に見える道は神宮に続くかつての参道に思えた。

古ぼけた家々の立ち並ぶ街並みの中を、参道と思しき道は広くもなく狭くもなく神宮の方向へ延びている。

神宮橋からの街道を横切り、また四車線道路との交差点を渡ったが信号機もなく、参道としては既に機能を失っていることは明らかだった。

もう少しで神宮である。早く着きたい、と思った。

急ぎ旧街道を感じさせる鄙びた道を進み、なだらかな坂道となるその手前で、ふっと、小さな鳥居に惹かれた。

おや、と思って車を止めて降りる。

奥に小さなお社。

大鳥居にあったのと同じ意匠の案内看板があり、鎌足神社、とあった。

鎌足…?

鹿島と鎌足が、筆者の頭の中では結びつかなかった。

看板を読み込むと、鎌足神社の境内は古来より藤原鎌足の誕生地と伝えられています、とあった。

藤原鎌足すなわち中臣鎌足は、大化の改新で我々覚えているのだけれども、前出の神宮の冊子に拠れば鹿島の大神に仕える祭官の家の出とも言われている、とあった。

鎌足を祖とする藤原一門は氏神としてこの鹿島神宮および香取神宮を大切にしたのだそうである。

(下生鎌足神社)

まこと不勉強のなせる技であるけれども、筆者としては思いがけず神宮へ参ずる前、鎌足にお会いすることが出来た、というわけだ。

神宮への道は、確かなものだった。

なんだか長旅をしてきたような感慨深さに見舞われたが、もう神宮は近かった。

狭小な峠道を登り、天辺の学校を回り込み降っていくと、ぱっと景色が明るくひらけて、真新しくなった街並みの中を進んでいくと、あっけなく「ニ之鳥居」が現れた。

白木の大鳥居が午後の光を浴びて輝いていた。

(中編につづく)

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箏曲家・宮下伸、その至芸と精神

『地球は民族の集まりなんだよ。あなたは地球市民でしょ、それではダメなんだ。』

現代邦楽・最後の巨匠、作曲家であり三十絃・箏演奏家である宮下伸。その至芸は、虚空において絃と爪から無限の色彩感を紡ぎ出す。空即是色、色即是空の境地を想起させる。

宮下は「音に入る」という表現をしばしば用いる。演奏中の宮下のマインドは、森羅万象において自然界が奏でる音、そのものとなって響きを創造するのである。

また特定非営利活動法人伝統芸術ライブラリー顧問であり、筆者の師匠でもある。

(宮下伸近影、令和二年1月 筆者撮影)

■父・宮下秀冽の軌跡

宮下伸の父でありやはり箏曲家であった宮下秀冽は、現在高崎市となっている倉渕村にある、造り酒屋に生まれた。旧倉渕村は、カルデラを構成し榛名湖を火口湖に持つ榛名山の西側に位置し、高崎市内からは榛名山を望ながら果樹園の広がる裾野をなだらかに登り、山あいを左方奥へ回り込んだところにある。倉渕は四季折々の表情豊かで、酒造りに適した銘水の湧く豊穣な土地である。

高崎市周辺の群馬県南部一帯は古墳等の遺跡も多く、また隣接する赤城山の麓には旧石器時代の磨製石器が出土した事で知られる岩宿遺跡がある。縄文文明が花開き、そして渡来文化が入り現代に至るまで、この大地は古代国家から現在の日本国家に属する「日本人」の生活の場となってきた。

特に大和朝廷成立以降はその統治政策において、高崎市の多胡碑(ユネスコ世界遺産)に示されるように帰化渡来人の移住も行われて、養蚕や窯業、鉱山開発などの産業技術の中心地ともなる。養蚕は後の官営富岡製糸場(同・世界遺産)の設置に繋がったと言えるだろう。

群馬県人は縄文文明に渡来人文化を重畳させ繁栄してきた古代日本人の血統を色濃く有している。

さて、宮下秀冽は高崎中学を出るが成人する前に失明し箏曲の道に入った。

宮下秀冽は斬新な作曲や演奏のスタイル、実力が宮城道雄に次ぐ箏曲家として認められていく。

■宮下伸の芸道

その父・秀冽に宮下伸は幼少から箏曲の手ほどきを受け、ピアノ等西洋音楽の素養も身に付ける。特にフルートはN響の奏者に師事するほどの英才教育ぶりであった。中学時代からのブラスバンドでは、あらゆる楽器を弾きこなした。

そして東京芸術大学へ進学する。在学中に安宅賞を受賞。芸大の後、NHK邦楽者育成会を首席で修了し、「NHK今年のホープ」に選ばれる。さらに伸は育成会の専科生としてさらに研鑽を積むこととなる。

芸大在学中の日本を代表する民族音楽の研究者であった小泉文夫の薫陶を受けた。

「箏はワールドミュージックである」と述べる宮下伸の音楽の捉え方・思想に強い影響与えたのも小泉であったと考えられる。

宮下伸の卓越した演奏や作曲の能力は具体的なプロジェクトや評価に結実していく。芸大を卒業してあまり間をおかずして第一回芸術選奨文部大臣新人賞受賞したのを皮きりに、「宮下伸 箏・三十弦リサイタル」の演奏、作曲により文部大臣より芸術祭大賞を受賞する。

また若い頃から政府の依頼や招待によって日本各地や世界各国で公演する。ヴァイオリニストのヴィーツラフ・フデチェック、シタールのラヴィ・シャンカル、フルートのジェームス・ゴールウェイらと次々に共演、それぞれビクター、ポリドール、イギリスRCAによってレコード化された。

作曲家として委嘱作品も多く、NHK委嘱「響の宴」の作曲では芸術祭賞文部大臣賞を受賞している。

(三十絃箏を演奏する宮下伸、筆者撮影)

また徹底的に磨き上げられた宮下伸の芸は、正確無比かつ技巧性に溢れ、その音色も表現が深い。

十三絃は勿論であるが、父秀冽の考案により創られた三十絃を自由自在に弾く能力は凄まじいの一言に尽きる。

三十絃は秀冽によって考案されてもほとんど使われず、ながらく宮下家に「吊して」あったものだったが、伸の類い希なる才能によって息を吹き込まれ、育て上げられたと言えるだろう。

十三絃が長さ一・八メートルに幅が三十センチ程度なのに対して、三十絃は長さ二・三メートルを超え幅が六十センチ強という、現用されるもので世界最大の箏である。

ビクターから収録時リミッターをカットして原盤にダイレクトカッティングすることによって、極限まで原音を追求したアルバム『三十弦』がリリースされている。津軽三味線の高橋裕次郎が競演するインプロビセーション(即興)によるセッションもあり、数百万円するというカッティング装置を何度も飛ばしたという、演奏者のみならずレコーディングスタッフも一発真剣勝負という、熱のこもったアルバムだった。

中東アジア地域に生まれたと言われる弦楽器。

弦楽器が到達した地において生まれた三十絃は、世界で最も進化した弦楽器だと言うことも出来るだろう。

(アルバム『三十弦』宮下伸、ビクター)

■越境する箏

ところで、先に述べたように宮下伸は著名な西洋音楽家とのセッションが多かった。そうしたな中、注目すべきなのは世界的なシタール奏者であるラビ・シャンカルとの出会いである。

ラビ・シャンカルは世界ツアーの中で世界各地のトップ・ミュージシャンとのセッションを重ねていた。ラビ・シャンカルは来日の折、日本の音楽家として箏の宮下伸、尺八の山本邦山(人間国宝・故人)と共に曲作りをしてアルバム『EAST GREETS EAST』を出している。

このアルバムは現在、アルバム『Vision of Peace: The Art of Ravi Shankar』に収録※されており、海外盤を入手することが可能である。(※『Vision of Peace: The Art of Ravi Shankar』Deutsche Grammophon , ASIN: B00005B4MW

Amazon Music Unlimitedでも聴取および購入・ダウンロード可:https://www.amazon.co.jp/dp/B00BH3UPNQ/ref=cm_sw_r_cp_awdb_c_f-npEbNV2X06K

(『EAST GREETS EAST』ラビ・シャンカル、ユニバーサル)

一方、宮下伸の自身のアルバムとして他の民族楽器とセッションしているのが『THE ORIENT 民族の伝説』である。

〝国際的に活躍する箏の宮下伸が、父親譲りの三十絃箏を駆使して、アジア各地のヴィルトゥオーゾたちと競演した力作。在日のシタールのヘーゴダ、二胡の許可、カヤグム(ここでは杖鼓)の池成子、篠笛の藤舎名生とともに、アジアの民族詩を摘ぎ出している。〟(CDジャーナル データベース)

なお、シタール奏者のヘーゴダはラビ・シャンカルの弟子である。

弦楽器の最終到着地である日本音楽から、中国や韓国、そしてインドの民族楽器へとアプローチしているのが興味深い。

収録内容は以下の通りである。全て宮下伸による作曲作品。

1.「ムガール」シタール:プレームダース・ヘーゴダ

2.「長城」 二胡 :許可 、三十絃::宮下伸

3. 「悠久なる山河 」チャングム:池成子、三十絃::宮下伸

4.「正倉院 」笛:藤舎名生、三十絃::宮下伸

5.「素朴な風景」 三十絃独奏:宮下伸

THE ORIENT」を宮下伸YouTube公式チャンネルで公開しています。https://www.youtube.com/playlist?list=PLEVWJFK0l-OqcjI3ueDqAKU8Pg2K_4gDA

■そしてルーツの旅へ

歌人であり劇作家でもある寺山修司は、宮下伸の音についてこのように述べている。

〝宮下伸の三十弦の琴をはじめてきいたとき、私はその呪術的な力にがんじがらめにされてしまう自分を感じた。それは、音色で編まれた七色の蜘蛛の巣を思わせた〟

実際に宮下伸の生み出す音色に触れると、その奥行きの深さに驚きを禁じ得ない。玉鋼から緻密に造り込まれた刀の輝きの様に似ているかも知れない。

玉鋼の素材は日本の大地から産出されたものであり、それが縄文由来の精神と技術、そして渡来して融合した新たなる日本人と重畳した技術とで極限まで叩き磨き込んだのが日本刀であるとすれば、日本古来の伝統に由来し、現代人に至る精神により極限まで磨き込まれた至芸、それが宮下伸の芸道の達した境地である。

また宮下伸の音色、その響きは弦楽器が辿ってきた道のりを覚えている。

筆者が確信するのは弦楽器のルーツとは、現代日本人のひとつのルーツでもある、ということだ。

弦楽器は、アジアの西端から日の昇る方向を目指した人々と共に旅をして、やがて到着した日本列島の豊穣な自然に恵まれた文明に折り重なり育まれた。

その〝旅の成果〟である宮下伸の至芸と『THE ORIENT』の民族楽器とのセッションの織りなす響きは、筆者の魂を大きく揺さぶり、失われつつある旅路の記憶を求める「ルーツ」の旅へと、強く誘うのである。

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