オリエント、太陽へ向かって(太秦前編)

「京都市観光マップ」より

平安京・大内裏の位置は、もともと現在の京都御所よりも西方にあった。

現在の京都御所の西方にある二条城が面するのは京都市街地を南北に貫く堀川通であるが、そのさらに西、今の千本通が丸太町通と交わるあたりに大内裏があった。

かつての大内裏のすぐ真北には小高くなった船岡山と呼ばれる丘があり、山頂の公園から眺めると両側に大文字・左大文字、南を向くと左斜め方向つまり南東に京都御所が、そして同じくらいに右斜め方向へ首を振ったあたりに広がる住宅密集地が、太秦の街である。

四条大宮のビジネスホテルに投宿して、嵐山行きの京福電車に乗り込んだのは平成19年の3月だった。

昼近く、2両編成のトラム(路面電車)は住民らしい人たちで賑わっている。

列車は西へ向かって出発する。街の裏通りのような面持ちの専用軌道を飛ばして走り、西院という停留所を過ぎると西大路通の信号を渡って三条通の併用軌道区間へ進入する。

ちなみに西院は〝さいいん〟と読む。が、隣接する阪急の駅名はそのままの読みなのだが、今乗っている京福電車の停留場名では西院と書いても読みは〝さい〟となる。

この不可思議な停留場のすぐ裏手には、京都時代にお世話になったお琴屋さんがあって、楽器の調整や道具・楽譜の購入、演奏会の楽器運びのバイトまでさせてもらったものだった。今は代替わりして屋号も変わり、お店も祇園の方へ移ったと聞く。

このお琴屋さんのバイトのおかげで、箏の沢井忠夫、尺八の山本邦山の、最晩年の演奏を舞台袖にて生で聴いた。筆者の師匠である箏・三十絃奏者の宮下神と、戦後邦楽最盛期の覇を競った男たちだ……筆者の師匠以外は既に故人である。

列車はアスファルトの上をゆっくり進む。

進路上の軌道敷にもお構いなしに割り込んでくるクルマを慎重にいなすように、列車は道路をゴロゴロと走り、路上に人の肩幅ほどの狭いホームがあるだけの山ノ内停留場に差し掛かる。

学生時代、雨の夜にバイクを走らせていてレールで滑り転倒したのはこのあたりだった。痛い思い出だ。

両脇に軒の連なる道路の真ん中を進行して再び専用軌道に入ったと思ったら、すぐにまた路面へ出て、列車は「蚕ノ社」に滑り込んだ。

停留場の敷地まで商店が占拠しているかのように見えるほど、密集した街だ。

この太秦は、平安京が出来る前から渡来人である秦氏が拓いていた街だ。平安京は造営大夫に任ぜられた和気清麻呂が造営に尽力したのだが、秦氏の協力により果たされたと言われている。

蚕の社、木嶋神社は「続日本紀」大宝元年(701年)の条に記載されていることから、平安京よりも前の、古くからの祭祀であることが明らかである。その名前の通り、秦氏がもたらした養蚕に縁がある。

蚕ノ社のホームを降りて少し歩くと、鳥居があった。

木嶋神社(蚕の社)参道

クルマや自転車が頻繁に行き交う住宅や商店の間を歩いていく。途中におばんざい屋さんがあったので、カボチャの煮付けなどの定食で腹ごしらえをした。中年の女性が一人で切り盛りしてるちょっと洒落た小さなお店だったが、関東とは味付けが違うもののダシが利いていて美味しかった。

京都というのは、住んでしまうと他の地方都市と変わることのない、庶民の街である。その中に歴史的建造物やエピソードが点在しているイメージなのだが、太秦はとりわけ庶民の色の濃い街だ。かつての大内裏からそれほど遠いわけではないものの、西大路より外側の所謂〝洛外〟にあったこと、また都色に染まらない独特の文化を持っていた、ということなのだろうか。

住宅街のど真ん中に森があり、そこが神社だった。

カテゴリー: 箏のルーツを探る | オリエント、太陽へ向かって(太秦前編) はコメントを受け付けていません

オリエント、太陽へ向かって(ディアスポラの音楽編)

神の声、予言者の歌

『L’Esprit de Dieu et les Prophetes』というCDアルバムが手もとにある。

神と預言者の精神、という意味のようだがアルバムに付されたブックレットには翻訳者により「神の声、予言者の歌」ヘブライ語による旧約聖書の歌唱、とある。

10曲からなるアルバムを歌い上げている、歌手のエステル・ラマンディエはブックレットに楽曲の詳細を述べている。

それによると……古いヘブライ語の旧約聖書のテクストの母音の上または下には、テアミムと呼ばれる19種類の記号が書かれている。これは朗唱する時の音楽的な意味を持つ記号であったが、紀元70年のエルサレム教会の没落とともに意味が失われたのだという。

1970年代になって、現代フランスの研究家で作曲家でもあるシュザンヌ・アイク=ヴァントゥーラの研究により不明となっていた記号、テアミムの解明が可能になった。

このテアミムはキロノミーと呼ばれる、手振りによる合図にも替えられる。レビたちの間で聖歌歌唱の主導者たちが用いた一種の記憶術であったキロノミーは、紀元前2600年のエジプトでも既に用いられていた、古い歴史を持つものである……。

今からざっと四半世紀前、学生時代を京都で過ごしていた筆者は四条河原町近くの店で、貼り付けられていたわずかな日本語の案内とジャケットにつられてこの輸入盤アルバムを買い求めたのだった。

ラマンディエの歌唱により、〝そのまま〟再現された聖書の世界は想像を超えた美しさだった。

※本アルバムは現在では廃盤となり入手困難ですが、筆者のYouTubeチャンネルにおいてダイジェストを聴けるよう公開しています。https://youtu.be/lgOrwOfT-zI

若い頃、聖書の世界に惹かれて教会の門を叩き、聖歌隊の活動に熱中してそのまま洗礼を受けてしまった筆者にとって、ラマンディエの歌声は格別に響いたようで、さんざ持ち歩いて聴いたものだった。

さて、聖書の世界やラマンディエの歌に垣間見られる音楽芸術を生み出したユダヤ人たちは、キリストの出現以降、ディアスポラ(離散民族)となり東西へ散らばることになる。

イスラエルは、ヨーロッパとアフリカ、そしてオリエントを結ぶ交点という、大国の覇権が交錯して小国や少数民族が生き残るには厳しい地政学的な位置にある。

言い換えれば、世界へ通じた土地に住んでいたユダヤ人たちは独自の信仰を核としながら、多くの民族の言語を身につけ、絹織物など高価な品々や知識を商い、彼らの拓いた交易路を旅して生計を立てていたのである。

そうした使い慣れた交易路を、国を追われディアスポラとなって移動し、ヨーロッパ各地へ到達した彼らはその土地の民族文化と交流を深めていく。ユダヤ教転じてキリスト教となった彼らの信仰はローマ帝国の国教ともなり、各地の土着宗教を呑み込むようにヨーロッパ全土を席巻していった。

一見、版図がキリスト教に制圧されたように見えるヨーロッパではあるが、例えばかつてはヨーロッパ大陸各地にあったとされるケルトのドルイド(呪術師)を中心とした精霊信仰も、ハロウィンなどの行事等にその痕跡を留めている。

しかし、古代ユダヤ人の文化はキリスト教とともにヨーロッパ文化の基底部へ影響を与えていく。例えば聖書の朗唱は中世キリスト教のグレゴリオ聖歌などにも影響が見られ、それがヨーロッパ・クラシック音楽の源流を形成していくのである。

ところで、ディアスポラとなったユダヤ人には、東方へと、交易路であるシルクロードを太陽の方向へと向かった人たちもいた。

……ここで、ひとまず話は現代に飛ぶ。

21世紀へと変わって間もない頃、筆者は聖歌隊指導者だった小学校の校長先生に、ある牧師の講演を記録したカセットテープをもらっていた。

クリスチャン・ホームで育って、のような素養のないまま突然に洗礼を受けた筆者は、学生時代には青年会や教会学校など教会の活動へのめり込んでいた(教会仲間と遊び歩くのも楽しかった)のだが、聖書を学び、たくさんの牧師と交流する中で不満(疑問)も溜まっていた。

と、いうのも日本の神々とキリスト教の唯一神の「神」とを引き合いに出して、だから多神教である日本の信仰は間違っているのだ、という感じの主張がよく聞かれた。が、そもそも文化の基盤の異なるところで、日本で言う神々の神、と英米文化である現代キリスト教の神とでは比較の仕様がないのではないのか、という素朴な疑問があった。

東洋にもブラフマン(梵天)という宇宙の源となる絶対神は存在するが、それは八百万の神々を否定するものではない。

旧約聖書には「神々」という言葉は使用されているわけで、概念的に日本古来の神々の概念とむしろ通じているように筆者は当時考えていた。「神」をあえて絶対化することはむしろ、ユダヤ人であったキリストの意から離れた政治的な作為なのではないのか、と。

と、そんな若者の青い主張をマトモに聞いて下さったのか、はるかに年下の筆者を音楽仲間・友人として交流してくれていたその先生から、件のカセットテープが渡されたのである。

それは、日本の中世にキリスト教が伝来した、そのはるか以前に既にキリスト教は到来していたのだ、という驚愕の内容だった。

キリスト教が伝来したのは1549年のフランシスコ・ザビエルという西洋人によるものが初めて、と教わっていたわけであるし、その後廃れたものの、明治になってかやら英米から多数の宣教師が来日したという事実は常識であった。

筆者が洗礼を受けたのは高崎にある教会であったが、勝海舟の揮毫による「西教会」の看板が遺されていた。つまり、キリスト教とは西洋文化と同義に等しく、東洋周りでキリスト教が伝来してきた、という話は全くの意外なものであったわけだ。

麗らかな春日(だったと思う)、筆者は、その痕跡を確かめるために講演に紹介されていた土地、つい数年前には下宿していた京都の町へと舞い戻っていたのである。

カテゴリー: 箏のルーツを探る | オリエント、太陽へ向かって(ディアスポラの音楽編) はコメントを受け付けていません

鹿島立ち(後編)

(鹿島より香取へ)

日本列島における人類の存在は百万年前にも遡る可能性があると、国立民族学博物館教授の小山修三氏は指摘している。一方、文明の痕跡が確実に証明なされているのは三万年前である。

群馬県の岩宿にて、現時点における最古の磨製石器が発見された。少なくともその年代から人々が日本列島において道具を製造する営みを行っていたわけである。

石器(打製石器)そのものは11万年前には使用されていた。三万年前の磨製石器の出現の後、16500年前には最古の土器が、13000年前に土偶、そして12500年前まで時代を下ると漆が栽培され用いられていた。

土器が作られるようになった縄文時代については、青森県の三内丸山遺跡がよく物語っているが、比較的大規模の集団で集住し、狩猟採集の他、栗などを栽培し、海を隔てた遠隔地とも交易を行っていたことが判明している。縄文人の痕跡はユーラシア大陸ばかりでなく、南北アメリカ大陸にも土器などの遺跡として発見されている。

小山修三氏によると、縄文時代の日本列島の人口は東日本に集中していて、西日本の人口は少なく推移していたのだという。気候の変動により人口分布の変移や数の増減は見られるが、縄文の文化は主として東日本で発展し、それが日本国建国以前の古代国家を成立させ、日本文明の礎となっていく。

弥生を象徴する稲作は、縄文中期には既に日本列島では行われていたのだという。縄文人が稲作の技法を大陸から持ち帰った可能性についても、京都府立大学和食文化研究センター特任教授の佐藤洋一郎氏は指摘している。氏はDNA鑑定によるデータを基に、朝鮮半島における稲が日本列島で栽培された稲とは種類が異なることから、稲作文化は今の中国大陸から直接もたらされたのではないかと推察している。

ところで、国際日本文化研究センター名誉教授・埴原和郎氏は、遺跡から計算される縄文時代末期から奈良時代にかけての人口増加率があまりにも高いことに着目し、人口増加が外在的要因、つまり日本列島の外部からの移住によって起こった、としている。

このような状況において、縄文文化を背景としていた東日本を中心とした日本と縄文中期に渡来した稲作文化及び移住してきた渡来人を祖とした西の日本とが、併存しながらお互いに浸透し、ついには東西が統合された国家が生まれるのである。

平安時代中期に施行された延喜式の大祓詞には「如此依さし奉し四方の国中と 大倭日高見之国を安国と定奉て」とある。大祓詞は大祓式に用いられる祝詞の一種であるが、中臣氏が専らその奏上を担当したという。

さて、この「大倭日高見国」とは「大倭(ヤマト)」と「日高見国」とを合わせた国名に思われる。日高とは、日が高く上る所を示している。鹿島神宮の座す常陸国は、日が立つ=日が上ることからもたらされた名称であるとも言われていて、かつての縄文文化を背景とした古代国家である日高見国の中心がまさに鹿嶋にあったのではないかと指摘される所以となっている。

日本書紀において、鹿島神宮の大神であるタケミカズチ、そして香取神宮の祭神であるフツヌシが出雲のオオクニヌシと国譲りの交渉に臨む。これの示すところは、日高見国と大陸から稲作をもたらして国造りの楚としてきた弥生の日本人勢のヤマトとを合邦させ今の日本国である「大倭日高見国」とする営みではなかったのか。

平安時代中期に施行された「延喜式神名帳」における神宮とは三社のみであり、鹿島神宮と香取神宮、そして伊勢神宮である。鹿島神宮の創建が紀元前660年、香取神宮は紀元前643年、そして伊勢神宮は紀元前4年とされている。

埴原和郎氏は、もともと少なかった西日本の人口は、稲作の浸透により東日本と人口比率が反転することを指摘している。現在に至る勅祭社(祭礼において天皇の勅使が遣わされる)であり、国体と密接に関係する鹿島・香取・伊勢の三大神宮。その創建における時の隔たり、すなわち日本建国時に創建された鹿島・香取と伊勢との間の六百年とは、東日本から西へと執政の中心地が変遷した事実を物語っているように思われるのである。

筆者は、日の大きく傾いた鹿島神宮を辞して、香取神宮へと急いだ。

日本の国、日本人のルーツを辿る時、タケミカズチとフツヌシの両大神に出会うことを外してはならない。

(香取神宮大鳥居)

果たして、香取神宮に到達した時には午後4時半を回っていた。気温は下がってきていたが、まだコートを着込むほどではなかった。

鹿島神宮と同様に日の上る方向を目指して鳥居をくぐり、両脇に石灯籠の立ち並ぶ螺旋状の参道を登り切ると石段の上に楼門があった。楼門を入ると人気のない境内に黒色の引き締まった印象の拝殿が待っていた。

参拝の後、片付けの始まった社務所を横目に楼門まで戻り、今一度拝殿を見上げると、お社の奥の方からの、ひんやりした心地よい風が頬を撫で始めた。

〝また、いつでも来なさい〟

筆者は、武の神様と聞いていたが、むしろ優しく包み込むような大気に満ちた香取の神域に魅せられていた。

箏のルーツを知るための旅は、それは日の出ずる処、物事の始まり、鹿島立ち、を知る旅から始まったのである。

カテゴリー: 箏のルーツを探る | 鹿島立ち(後編) はコメントを受け付けていません