箏の授業と歴史考

一月の下旬は、二つの小学校で授業を実施。

一つは埼玉の地元地域、一つは故郷の前橋の学校。今回から一つだけ歴史的な要素を加えた。

埴輪の写真である。

琴を弾く埴輪は各地で出土しているが、特に古墳群の多くみられる群馬や埼玉における出土例は多い。

たまたま授業を行った前橋の小学校に隣接する朝倉町からも出土していて、その写真〈埴輪男子倚像〉を児童に観せることができた。

すなわち、5世紀ないし6世紀には「琴」は既に同じ地域において弾かれていた、という証拠である。

お下げ髪のような美豆良(みずら)が特徴で、美学者である東北大学名誉教授・田中英道氏は、形象学のアプローチと歴史的考証から、当時日本へ大挙して帰化していた渡来人である、という見解を述べている。

美豆良をもった埴輪のモデルは、日本人に融合する前の民族的習俗を遺した渡来人の姿である、というのだ。

当時の人口の推計から考察すると、日本人の祖先の実に四分の1はこの時期に渡来した人々である、とする説もある。

小学生の児童には、千五百年前の僕ら日本人の祖先は、もうお琴を弾いていたんだよ、という話を伝えた。

むろん、この後のユーラシア大陸との交流の中で今に続く楽器の形状や音楽文化は熟されていく。

小学生において邦楽器の実習が義務化されたのは平成12年だった。僕自身、縁があり当初は高崎の小学生などの授業に赴くようになった。

十五年余りの児童への指導を通して、一貫して思ってきたのは、伝統音楽というものは我々の祖先が生み出して、その生活に寄り添いながら、確かに受け継がれてきた存在であるという事実。そしてそのことを体感することにより、日本人は世界に対しても十全にその役割を果たすことが出来る、という信念である。

しかしながら、邦楽の世界は(実は音楽文化全体が)急速に縮小している。

背景には経済的な要因も大きいかもしれないが、教育における歴史や文化が、日本古来のものについて必ずしも肯定的でない(理解が十分になされるような扱いをされていない)ことにあるのかもしれない。

そこで、ささやかな仕掛けとして〝千五百年前の隣人〟と現代の箏を重ねて児童へ伝えた、というわけである。

前橋の小学校を訪れる時、雨雲が切れて朝の陽光が校舎を照らすその背後に、赤城山が姿を顕していた。

赤城は、千五百年前からほぼ変わらぬ御姿でこの地の日本人と文化の有り様を見守ってきた筈である。

伝統音楽が消える時、それは日本人が消滅する時である。

その日本人が消えない、本当にささやかな抵抗を、僕は今後も続けていくのである。

(箏の授業を伝える記事 上毛新聞・令和2年1月30日)

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伝統芸術ライブラリーの新たな取り組み

絃楽器のルーツから日本文化の成り立ちを解明する

理事長・箏曲家 岡部秀龍(修吉)

◇点と点

絃楽器は中近東で発生したと言われているが、手元の日本の絃楽器と、どのような繋がりをもっているのだろうか……ということを、ずっと疑問に思っている。

民族音楽という地球上の特定地域における「点」についての探求の深度は深まっても、その点と点を結ぶ「線」がよく分からない。

現代日本における伝統楽器の原型は、奈良時代までに日本へ伝来されたとされる。奈良時代の前、古墳時代には琴を弾く姿をかたどられた埴輪がよく知られている。その前になると、もうよく分からない。

この日本文明の地において、いまの日本国家の成立以前から縄文文化を背景にした「国家」が存在したと言われている。

いくつかの古代国家に、渡来系の民族国家が習合、融和をすることにより大和朝廷が成立していったことが、記紀や風土記、また各地の神社の伝承などから伺えるのだと言う。

◇日本民族は混血民族

さらに、最近の遺伝子研究によると、日本民族とは、縄文人と渡来人との混血民族であることが分かってきている。

世界の他の地域において民族が行き合うと、お互いに相手を消滅させようというせん滅戦となる。負けた民族の男達は皆殺しとなり、女子どもは勝者の奴隷となる。例外なく行われてきた民族のせん滅戦は、地域によっては今も継続されている。

しかし、この日本文明の地においては、古来の民族と、渡来した民族とは概ね平和裏に融和していったことがDNAの分析により分かるのである。

多少の衝突はあったのかもしれないが、せん滅し合うこと無く混血していく。

古事記においてイザナギ・イザナミの初子であるヒルコは、近親婚による奇形児であったことが指摘されている。つまり、近親婚を避けてなるべく遠い血筋と婚姻関係を持つことが教訓的に示唆されているのである。

こうした記紀における記述と、日本民族が平和裏に民族を融合させていった混血民族であることとは無縁ではないだろう。

つまり、民族の融和とは日本文明最大の特徴であり、日本文明における統一国家の言わば国是であった。

◇文化の融和

さて、日本における融合以前の諸民族の文化とはどのようなものだったのだろうか。

諸民族の文化がその人々の生活に、精神に深く浸透したものであるならば、民族同士の融合とともに、民族文化も融合し、あらたな〝混血文化〟を形成したのではないか。

であるならば、現代日本人から融合以前の民族の特徴を辿ることは、まだDNAには明らかであったとしても、形象的には困難であろうことを考えれば、文化の痕跡を辿ることはまさに不可能に近いだろう。

わずかに、日本各地の伝承、埴輪などの形象に痕跡が認められるのみである。

つまり日本文明において文化というものは、いくつかの民族文化が折り重なっていることが推察され得るものの、あたかも作為的と思われるほど、完璧に一つの文化として現代へ伝承されているのである。

◇文化の〝DNA分析〟

いったん融合された文化を分解することは不可能だと思われる。

日本民族へ融合された、民族や種族としては最も最近である、鎌倉中期に渡来したアイヌ人でさえ、わずか八世紀前に携えてきた文化を捉えることはほぼ不可能とされる。現代、アイヌ文化とされている言語や歌唱、舞踊などは比較的最近に類推や創作をなされたものであるという。

あたかも遺伝子の塩基配列を分析するように、日本文化を分析して、その成り立ちを解明することは、果たして可能なのだろうか?

漠然と文化を辿ったところで雲を掴むような話だろう。

◇ルーツの旅へ

そして話は冒頭に戻る。

私の専門は箏、絃楽器である。絃楽器に関しては、この二千年間に限定すれば、冒頭に述べたようにある程度の流れは分かっている。

二千年間に限定するかたちで、現代において読み解かれている、各民族の古代文明における器楽、しかも絃楽器に絞り、文献や研究書を紐解くことにより、一定の事実関係は判明する可能性もあるのではないだろうか。

箏は、雅楽の楽器であり、唐学として日本へ輸入されたと言われてきた。したがって、箏の原型は中国にあるというのが定説である。

しかし、雅楽士には、渡来人である秦氏の末裔が多い。

民族文化というものが民族の風俗や精神に深く浸透したものである、という前提に立てば、雅楽は単純に輸入されたものなのではなく、秦氏の渡来と共に日本へ到来したものである、と考えたほうが自然だと思われる。

さらに、秦氏はそのルーツは中国大陸西域の弓月国にあったことが文献に記されている。

そして秦氏の祖先は、日本へ渡来したばかりでなく、弓月から至った秦朝など中華王朝の政治へも関与している。

つまり、中国大陸の文化と日本文化との類似性、すなわち箏の類似性に関しては、単純に中国大陸から日本への文化の輸入というよりはルーツが同一であるという捉え方にも一定の蓋然性があるのではないかと思う。

当時の巨大商社でもあった寺院、東大寺宝物殿に伝わる楽器は、交易の中で伝来したものであるがその楽器の演奏手法は明らかではない。

楽器はその楽器を扱った文化をもつ人々と共に渡来する必要があった。

また楽器は、その文化の帰属する民族と共に移動した。

いくつものディアスポラ=流浪民族が日本へたどり着き、ディアスポラは日本人の祖先の一つとなり、そのディアスポラの民族文化は古来の文化に重畳し、現代日本人および現代日本文化へと続くのである。

この二千年間の絃楽器の動静に着目することにより、我々の絃楽器のルーツを辿る営みは、それが日本人や日本文化の成り立ちを解明する一端となり得るのではないだろうか。

◇シルクロード

中近東から日本へ至る絹の道、シルクロードは主としてユダヤ商人の交易路だったのだと言う。

日本民族は北方や南方にもルーツがあるが、日本神話や中国に残る文献に拠る限り、最も最近ではユーラシア大陸との関係性が深いと言えるだろう。

箏の絃は、現代では専ら化学繊維が用いられるが、もともとは絹の糸だった。

シルクロードにおける各地の民族文化の実情を掘り探ることにより、それら「点」を結ぶ線が浮かび上がってくるのではないだろうか。

◇「点」の検証

さて、これから様々な視点から、シルクロードに点在する民族文化について掘り下げていきたい。

そのスタートラインをユダヤの民族音楽としてみた。

ルーツを辿る旅は、40年前に著された水野信男氏の本書から。

何か足がかりとなるものがあるだろうか。

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首里城、真の再建なるか。

火災で焼失した首里城。

首里城のオリジナルは1715年頃、隷属していた薩摩藩による材木の提供により火災による三度の焼失から再建されたものである。

沖縄の領主であった尚氏は、薩摩藩の支配下にあったものの、明との交易にあたって朝貢し「琉球国」の名称を与えられた。

もちろん、現地民による呼称は当然今も昔も例外なく〝おきなわ〟である。

琉球、とは縁もゆかりも無い呼称ではあるが、日本国が、その正しい国号ではなく中国名由来のジパングとして通称的に欧州へ広まったことと似ている。

沖縄の領内で採れた硫黄が明では火薬原料として珍重され、高額な返礼を受け取ることにより尚氏は私財を蓄えるが、領民の生活は裸足で粗末な小屋に寝起きするような、奴隷同然であったことが、合衆国のペリー提督により記録されている(彼らペリー一行は浦賀来航前後、補給の為沖縄に寄港、長期滞在していた。お馴染み、一行自慢の大砲に尚氏は脅かされ、彼ら合衆国軍人によって繰り返された娯楽、すなわち領民への強姦強奪等の陵辱は一切咎められなかったと言う)。

明治以降、首里城は荒廃し解体が検討されていたが、歴史的重要性が指摘され国宝「沖縄神社正殿」として修繕された。

その写真がこれだ。黒い瓦葺き、木目の壁。日本的にシンプルだけれども力強さを感じさせる佇まいだ。

その後米軍の空襲により焼失、占領軍の設置した琉球大学の敷地とされ、残る建造物も米軍により破壊され、完全に消滅した。

80年代の琉球大学の移転により、遺構が調査され、平成4年頃から首里城再建がなされ今に至る。その様子がよく知られている赤一色の次の写真で、なぜか中国様に加飾されたものだった。

この立地する首里城公園では、近年「首里城祭」が開催され、中華風の装飾を纏った創作舞踊や演劇、また中華皇帝への服従を示し土下座して額を何遍も床に擦りつけたりする〝三跪九叩頭の礼〟を披露したり、北京を遥拝するなどのイベントとして報道されたり、中国メディアにも「沖縄は歴史的に中国の領土である」証拠として大きく扱われている。

琉球国王の即位式を再現 首里城祭で「冊封儀式」沖縄タイムスhttps://www.okinawatimes.co.jp/articles/amp/68836

首里城祭http://oki-park.jp/sp/shurijo/event/182

この度の首里城焼失はたまたま、即位の礼の儀礼期間に重なる中で発生。中国へ服従する三跪九叩頭の礼などのイベントの直前だった。

何事もなければ、日本中が天皇即位祝賀にわく裏で、沖縄は「琉球」という一種のフィクションと中国隷属のアピールを例年通り行うところだった。

歴史や文化に嘘や捏造があってはならない。

政府がイニシアチブをとり、どのように首里城を再建するか、ある意味、政府の胆力が試されると言えるだろう。

この機会に、史実をもとにした沖縄について、また、首里城と「琉球国」についての史実が広く復活されんことを願う。

「主要な建物が焼失した首里城の復元に向けて、政府は先に菅官房長官をトップとする関係閣僚会議などを設置して具体策の検討を進めていて、このほど基本方針の案を固めました。

それによりますと、前回・平成4年に首里城を復元した際に作成した図面に基づいて原状復帰させることを原則としたうえで、柱の正確な形状など前回以降に明らかになった新たな知見もいかして復元するとしています。 」NHKニュースウェブ2019年12月1日よりhttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20191201/k10012197571000.html

※本文は沖縄出身のジャーナリスト惠隆之介氏のレポート、ウィキペディア等を参考にいたしました。

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