オリエント、太陽へ向かって(太秦後編)

木嶋神社は正式には「木島坐天照御魂神社」と言う。境内に摂社として養蚕神社があり、そのため通称「蚕の社」と呼ばれる。かつて養蚕・機織・染織技術の中心地に座し、今でも製糸業者の信仰が残るのだという。

そして、渡来人である秦氏の氏神様である。

秦氏とは、平安初期に編まれた「新撰姓氏録」によれば、秦氏は渡来人を意味する〝諸藩〟に分類されており、秦の始皇帝の末裔であり応神天皇14年(283年)百済より来日して帰化した弓月君が祖である。推古天皇に仕えた秦河勝が著名であるが、秦氏は携えてきた技術や知識により栄え、朝廷に貢献した。

また秦氏の末裔には東儀家など、現代に至るまで雅楽を担ってきた楽家も多い。日本の伝統音楽には、秦氏のような渡来人の芸能の影響も強く受けているのではないだろうか。

渡来人は、帰化した当初こそ固有の文化・文明を身に纏っていたことだろうが、次第にに日本の統治に溶け込み、「日本人」となっていく。

秦氏の祖は弓月君と述べたが、弓月とは西域にあった国の名称で、この国は景教つまり東方教会の流れにあるキリスト教徒の国であり、秦氏もネストリウス派とも呼ばれるキリスト教の信仰をもっていた、と言われる。つまり日本には早ければ三世紀にはキリスト教が上陸していた。しかしキリスト教は広まったり残ったりすることはなく、渡来帰化人から日本人へ同化していくと共に、在来の神仏へと溶け込んでいくのである。

資料① 国会図書館「新撰姓氏録」原本出版年不明
資料② 国会図書館「新撰姓氏録」原本出版年不明

さて、木嶋神社は秦河勝が開基した秦氏の氏寺である広隆寺創建の折に勧進されたとも言われているが、雑多な印象の太秦の街並みから鳥居をくぐると空気が一変するのを感じる。

「元糺の森」とも呼ばれている木々に包まれた境内を奥に進んでいくと、浅いプールのようになった「元糺の池」があり、その更に奥が竹垣に隔てられていた。

元糺の池

ちなみにこの元糺の池は、つい最近までは豊富な湧水に満たされていたということだが、現在では涸れている。この池に身体を浸すと病が治る、という信仰もあり、夏の土用の丑に行われる「御手洗祭」などの折には地下水で満たされ名残を留める。

その池の竹垣の奥から水が湧き出ていたはずである。

そして、そこには「三柱鳥居」があった。この鳥居を目の当たりにするために、ここまで来たのだ。

現在のものは江戸時代の石造であるが、それ以前は木造であった。

神社の由来案内看板には、「一説には景教(キリスト教の一派ネストル教 約千三〇〇年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと云われている」とある。

秦氏は百済から渡来しているが、その由来を弓月君(融通王)に辿ることができる。当時、推定人口60万人の日本に弓月君に牽かれ大挙帰化した彼らは最大で20万人にも及んだらしい。そうして日本各地の渡来人、秦氏へと繋がる。

現在の中国とカザフスタン国境付近にあったと伝えられる弓月国が弓月君のルーツであるが、弓月国はディアスポラとなった古代ユダヤ人の作った国であったと言われている。

秦氏が大和朝廷に使者を送り帰化の申し入れをしている頃の当時の朝鮮半島はどのような状況であったか。

朝鮮半島の北半分は、紀元前1世紀から「高句麗」という王族も民も満州人の国が存在し、4世紀末から5世紀にかけての最大版図では現在の中国東北部に至るまでを統治していた。そして半島の南半分に百済・任那・新羅とがあり、これらは韓人、今の韓国人の祖先の国である。

うち、任那は前方後円墳も存在していることから、大和朝廷の支配下にあったと考えられる。百済も新羅も大和朝廷への朝貢国であったが、中華皇帝への朝貢も行っていた。

なお、隋を滅ぼした唐は高句麗を滅ぼす。この高句麗から追われた王族の一群も日本へ渡来、帰化して高麗郡に封じられていて、その高麗王は日本の皇室の家系図にあるが、詳しくは後の旅で調べる予定である。

新羅は唐の後ろ盾により任那、そして百済を滅ぼすが、その百済へ大和朝廷が援軍を送った事件が白村江の戦いである。新羅は韓人として初めて朝鮮半島を統治下に置くことになるが、唐の衰退と共に再び満州人豪族である王建の建国した高麗に降伏をする……。

話がやや逸脱したが、つまり、非常に不安定な朝鮮半島において、弓月国の末裔であり、漢民族でも満州人でもなく韓人でもない、おそらくがユダヤ人ディアスポラであり、東アジアではまさに異民族であった秦氏の一族は、大和朝廷への帰化を懇願せざるを得ない事態に陥っていたことが想像される。

新羅の妨害を避けて、ようやく秦氏一族は新天地に到達して、音楽を含めた文化・技術をもって、日本人として繁栄を極めていくのである。三柱鳥居は、日本人に融合していった秦氏の、残像のように残った渡来人としての魂魄が、かろうじて形象化された存在だったのではなかろうか。

筆者は、涸れた元糺の池に踏み込んだ。さらに奥に進むと、竹垣の向こうの〝泉〟のただ中にそれはあった。

木洩れ日を眩げに浴びながら、それはただ、そこに佇んでいた。

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